踏む人踏まぬ人踏ませたがる人

マーチン・スコセッシが撮った『沈黙』


しばらく足を運んでいない中、久々に映画館で観たいなぁと思いながら、まだ観るに至っていないのですけれど、
カトリック系の学校に通う高校生だった頃に、その原作を読んだ印象を振り返る。


ボクは、「世界をひとつの色で染めることができる」とは思わない。
人は歴史の中で、「世界をひとつの色で染めよう」と試み、折に触れ、そのために暴力という手段を用いてでもそれを成し遂げようとした。


でも、悲しい歴史を積み重ねただけで、「世界がひとつの色に染まる」ことはなかった。


これからも「ない」のだろうと思う。


ボクたちは、もうそのことを、思い知るべきだと思う。
根気強い「対話」と、そこから引き出される「理解」(のようなもの)だけが、この世界を前に進める力になるのだと思う。


アメリカの大統領とこの国の首相が、共にゴルフを楽しみながら、「マブダチですよね、ボクたち」と、仲の良さをアピールした。
その最中、北朝鮮は、日本海弾道ミサイル飛ばして、挑発していた。


ボクは、


ゴルフに興じながら、この世界で苦しんでいる難民や、死と背中合わせにある子どもたちのことを考えられるニンゲンがいるとは思えない。


でも、この世の中で、


アメリカの大統領やこの国の首相がそのことを考えないで、誰が考えればいいのだろう?


挑発しているつもりの道化も、この世界に暮らすすべての人々を安寧幸福に導くことになるとは到底思わない思えない。


世界は茶番に満ちている。


そしてまた、言わずもがなのことを承知で、作らなくてもよい敵を作ることを承知で言うのですけれど、


ゴルフというスポーツそのものに恨みはないけれど、ゴルフというスポーツのこの世界におけるありようを理解しながら、


それに興じて楽しめるニンゲンと、ボクは友達にはなれません。
向こうさんにしたところで、そんなボクと友達になりたいとは思わないでしょうけれど。


そろそろ、『沈黙』に話を戻します。


ニンゲンは弱い生き物です。


ボクは、拷問の末「踏み絵」を踏むことになった人たちを、責めることはできません。
キチジローのニンゲンとしての弱さや狡さをも、責めることはできません。


ですが、


「世界をひとつの色に染める」ために、「踏み絵」を強要する側のニンゲンにだけは、


なりたくありません。断じてなりはしない。


そういう気概や心根が、


この世界の行く末を左右するニンゲンたちには、圧倒的に欠けている。


小さな単位の集団や組織であっても、上に立ちたがるニンゲンたちには、


そういう気概や心根が、圧倒的に欠落している。


と、ボクは思うのです。


結句、いつまで経っても、


「踏み絵」を踏ませたがるヤツらが、「踏み絵」を踏ませるために、世の中を動かしたがっている。


「世界をひとつの色に染め」ようとしている。


そのことに気づいていない人、気づかないふりをしている人も多いのですけれど、


現代にも「踏み絵」は、そこここに存在しています。


それを前にして、苦しんだり、死んでいったりするのは、いつも、罪のない者、弱い者。


あぁ、


くだらないったらありゃしねぇ。