必要だけど十分ではないのだ

本来、


草食系の、あっさり爽やか、淡泊でクールである中に、冷たい刃が走るような、


作家でいうと、吉行淳之介の文章文体がフェイバリットでありますから、


肉食系の、ギラギラギトギト脂ギッシュな文章文体は、寄る年波、消化によろしくございませんので、


最近の作品はぜんぜん読んでいないのですが、


むかーし、ちょこちょこ読んでいた花村萬月の小説、


氏自身もギター弾きであるらしく、音楽の話をよく書いていましたが、


ふと、20年ほど前に読んだ、『ブルース』という、どストレートなタイトルの小説を思い出した。


理論を固め、ばりばりにスケール練習致して、早弾きも淀みなく、ありとあるスタイルを弾きこなし、
ギタースクールで講師をしているギタリストのにーちゃん、


ヴィンテージもんのレスポール持っている。


でも、このにーちゃんの弾くギター、しょうもない、おもろない。


ドヤを彷徨うボロボロの元ギタリスト、このにーちゃんのギター借りて、そいつを無造作にアンプに直結してチョーキング一発決めただけで、


色気がほとばしる。


表現するには技術が必要、だけんどもしかし、技術があるからといって表現の質が高いとは限らない。
技術は、表現のための必要条件だが、十分条件ではない。


そういうの、かつては「下手のやっかみ」、ありがちな「おとぎ話」だと思わないでもなかったのですけんど、


他人様の前で、歌ったり、ギター弾いたりするよになって、
また、他人様の唄う歌や、奏でるギターをしこたま聴くようになって、


「下手のやっかみ」というわけでもなさそうだ。と、思うことぎょーさんありまして、


ボクと致しましては、


今からでも、技術は磨くに越したことはないのですけれど、
音数よりも、音色の人であろうありたい。と、思うのであります。


色気のない歌やギター、唄ったり弾いたりしましても、ねぇ……。


という、「下手くそ」の言い訳。


にゃ〜!