申し訳ないという感情

ボクは、本土に住む者として、
沖縄に住む人たちに対して、いつも心のどこかで、「申し訳ない」という気持ちを抱いています。


原発の誘致と、米軍基地の誘致には似たところがあると同時に、似て非なる所があります。
原発の誘致は、雇用の促進など、その誘致を地元の人々自身が期待歓迎する向きがある(愚かなことだけれど)。
基地にしても、そこにいる米兵目当ての商売に勤しむ人々がいるとはいえ、その誘致を、土地の人々自身が期待する向きはほとんどありません。


要は、国家による一方的な押し付け。押し付けられた側の苦痛を、我がことではないからとこの国の多くの人々はスルーしている。


高江へのヘリパッド移設に反対する人たちの抗議行動は、決して手前勝手で理不尽なものではなく「理」のあること。
それを国家という権力が、強制的に排除鎮圧し、強行するべく送られているのが「機動隊」。


そもそも、警察や機動隊というのは、国家が備えている「暴力装置」です。


通常、容認されることのない「暴力」が容認されるのは、
それが、国民市民の「平和」と「自由」と「安全」を保障する、その目的のために行使されるからであるに他なりません。


今回の機動隊員による、「土人・シナ人」発言、お互い様だとそれを容認する声がある。どっちもどっちという声がある。


強権的に押し付ける側が、「暴力装置」を以てして、「平和」と「自由」と「安全」を守るべき人々に対して、それを貶め、辱め、蔑む言葉を投げかける。


あり得ないこと、あってはならないことです。


たとえ反対派から暴言が発せられているとしても、警察官は不偏不党、公正な立場で警備に当たらねばならない。
県民を差別する立場に立つことを許してはならない。それを許せば民主主義は崩壊します。


そのあってはならないことを、「機動隊員も腹は立つ」と容認する声がある。その声がそれなりに大きな勢力を持って支持される。


過去、こういった言説言動は、あったにせよ、メディアの表層に立ち上ってくることはありませんでした。
取るに足りないコトバ、狂ったコトバ、間違った考えとして、葬り去られていました。


情報化の弊害なのか、それとも、この国の人々の倫理観が壊れつつあるのか、そんな言説が表だって流布される。


それは恐ろしいことです。


そして、何よりも、確かなことは、


暴言を吐いた機動隊員や、それを擁護する政治屋には、
沖縄の人たちに対して抱いて然るべきはずの、「申し訳ない」という感情が、皆無であるということ。


彼らの目に、反対行動を起こす者たちの姿は、国家に抗う「逆賊」としか映っていないということ。


反対派の人々が発する暴言は、政府の強権的な工事の進め方や、機動隊という「暴力装置」による違法な過剰警備に誘発されている。
反対派の人々の側に違法行為や暴言があったとしても、その原因は一方的に「お上」の側にある。


敢えて言います。


己のアタマで何も考えず、上からの命令にただ従って現地に赴き、
反対派の人々を暴力的に鎮圧排除することが、己の使命であると信じられる機動隊員、


あなたたちになぜ、何のために「暴力」が与えられているのか、もう一度よく考えてみてください。


そして、そういう機動隊員の言動を、「よくやってくれている」と労う政治屋


あなたは、屑の中の屑です。


そして、そういう人々に政治を託している府民市民、


それも、上等なニンゲンとは言い難い。




悲しくて、やりきれない。