鑑としての犯罪

異なる事件を、同じ土俵で語ることができないのは承知の上で言うのですが、


2001年6月の、「大阪教育大学附属池田小学校事件」を起こした宅間守も、
今回の「相模原市障害者施設襲撃事件」の容疑者である植松聖も、


その殺意の矛先を、力なき、小さい者弱い者に向けたというその愚劣さに震撼とさせられる。
今回の事件に至っては、国家権力から自分の行動に「お墨付き」を頂戴しようと考えていたというその思考パターンに驚愕する。


今回の事件、容疑者の尿から大麻成分が検出されたことや、入れ墨を誇示していたことなどが格好の報道ネタになっているようであるけれど、
大麻や入れ墨を「殺人」と、さも因果関係があるかのように語るメディアは、とてもくだらない。


大麻を吸うことや入れ墨を入れていることと、「人を殺める」ことの間に直接的な因果関係などないことは、
サルでも分かる(おサルさん、失敬)ことであるのに、


大麻」の摂取は、確かに法律上OUTではあるが、法的にOUTでもない入れ墨までを社会悪として十把一絡げに取り上げて、何を誘導したいのか?
メディアはメディアで、上っ面だけをなぞり、異常性を言い募るだけ。


宅間にしても、今回の事件の容疑者にしても、
過剰な自意識を向けるべきその対象を見失った。自己承認欲求のあり方が、どこかで道を誤った。と言うことはできたとしても、
殺人の動機ということについて、その本当のところはわからない。当人たち自身にも、わからないかも知れない。


ただ、これも多くの人がすでに話題にしているのですけれど、


かつて、


77年、環境庁長官時代に、水俣病患者の直訴文を「IQの低い人が書いたような字だ」 、患者一般に関して「偽患者もいる」と暴言を吐き、
99年9月、都知事として府中療育センターを視察した後の記者会見で、
「ああいう人ってのは人格あるのかね。絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状態になって。ああいう問題って安楽死につながるんじゃないかという気がする」と発言した、


政治家であり作家である男の心性と、今回の事件の容疑者の心性は、とても近いところにあるということ。
ほぼイコールと言ってもいいのではないかと思えること、を、想起せざるを得ない。


無論、実際に手を下すことと、下さないことの差はとても大きい。


しかし、上記のような発言を平気で行える人物を、四期連続で首都の長として頂いてきた都民、国民の心性の中に、
こういった感情を下支えする「愚かで醜い何か」が蠢いているとすれば、
それが、今回の事件の容疑者の背中を押すだけの力となったかもしれないとすれば、


この国の人々の抱えている「闇」は、途轍もなく深い。


今回の事件についても、容疑者を日本人ではないという論調で蔑みたがる、ネット上を蠢く顔を持たないレイシストの群れが存在する。
実は彼らが少数ではなく、そんな「闇」を抱えた者どもが、主体的に「国民主権」や「基本的人権」を軽視する勢力を支持しているのであるならば、


この国の未来は、相当に、暗い。 絶望的に、暗い。


教育の現場にも、「人権感覚」の欠落した者どもはリアルに増えていて、
そんな者どもが、いわゆる国策に尻尾を振りながら臆面もなく幅を利かせつつある。


極めて特異で、例外的な犯罪を犯した、極めて特異で、例外的な犯罪者ではあるけれど、犯罪は、社会を写す鑑。


植松聖のようなモンスターを登場させる土壌が、今の社会にはあるのだろう、 きっと。