ボクは道徳ができない

前にも書いたことがあるけれど、
職場の前の道路、片側二車線対面通行で、見通しの良い直線。


であるにもかかわらず、なぜか、ここだけ40キロの速度制限。
それを良いことに、このところほぼ毎日、早朝から交通課の警察が出っ張って「ねずみ取り」に勤しんでいる。


この道路、小さいものを含めても、事故の話ついぞ聞いたことがない。
60キロで走行していたとしても、大きな問題があるとは思えない。のだが、法的には制限速度40キロ。


そうと知る者は、この場所に差し掛かるとわざとらしいまでにスピードを落とす。
が、知らない者は、スーッと通過、お縄を頂戴することになる。


のだけれど、ここで日々、「ねずみ取り」の仕事に明け暮れる交通課の警察官たち、
自分のやっている仕事に疑問はないのか? 恥ずかしくないのか?


それが己に与えられた仕事なら、何も考えず、黙々と、クルマに速度レーダーを向けて、反則金ゲットすることで満足できるのか?


米軍北部訓練場の一部変換の条件として日米が合意したヘリパッドの移設工事、
抗議行動を続けてき反対派を、警察が暴力を行使しつつ強行排除。


移設についての意見は様々あろう、
が、排除にあたる警察官に機動隊員、暴力に訴えて排除にあたるその自身の行為を、誇りと信念の元に行っているのか?


それが己に与えられた仕事なら、何も考えず、黙々と、その仕事を貫徹することだけに専念できるのか?
反対派の市民の首を絞め、殴り、引きずり倒しても平気なのか?


そして、ボクの仕事を思う、


上からおりてくる、これをやれあれをやれ、これに従えあれに従えという指示に対して、
それが己に与えられた仕事なら、何も考えず、黙々と、その仕事を貫徹することだけに専念できるのか?


人を、子を、教育するという立場にあって、己の良心に照らし合わせて、"NO"であるものに対して、
ボクは、何も考えず、声も出さずに従いたくはない。


国を挙げて社会現象にしたいらしい、新聞の「ポケモンGO」の記事の大きさに比して、その扱いが不当に小さい「東村高江」の記事の横には、
小中学校への「道徳」の教科化を文科省の専門家会議が了承したとの記事。


「道徳」を教科として必修化、「検定教科書」を使用して、『正直、誠実』、『国や郷土を愛する態度』を評価する。
ボクは高等学校教員だから、直接関係するわけではない。


けれど、時の政権や国家権力が、自身の考える一面的な「愛国心」をコドモたちに刷り込むために使おうとしている「道具」としての「道徳」を、
どんな顔をして、小学校や中学校の教師は生徒らに教え、評価しようというのか?
先の交通警察官や、高江の機動隊員のように、それが仕事だから、何も考えずに専念するのか? できるのか?


戦後、「国民主権」と「民主主義」、そして「平和主義」によって、風通しの良くなった公教育の現場は、


数値的根拠のない「いじめ」の増加(立ち現れ方が変化しただけ)や、
「勤労意欲」の低下(正規雇用率の低下が即座に勤労意欲の低下を示しているのではない)や、
国家権力に対する「忠誠心」の低下(元々「権力への忠誠」から離れることから戦後のこの国はスタートした)
などをあげつらう、教育を己の思うままにしようしたいと思っている者たちによって、


日に日に息苦しいものに変えられていく。


彼らが、何を、どう変えたいと考えているのか?
それを知っても、まだ、彼らのやり方を支持したいのだろうか?


息苦しくなるのは、


スマホ片手にポケモン探しに夢中になっている、あなた自身なのですけれど。