死生観などようのもの

別に忘れていたわけでもないのですけれど、


先の「夜想」ギグの日は、お袋の命日。


でしたが、


亡くなって8年になりますが、


こちらからわざわざお伝えしなければ、そのことを覚えている人、他にだぁれもいるでなし、


殊更、供養法要その他諸々を致すわけでもなく、


例えば、


キヨシローや、チャーボーの、


或いは、


太宰や、梶井の命日に、


墓参りを致したいと思う人は、思う人の、気持ちなり心というのがあるわけですから、


それはそれで、否定する気はさらさらないのでありますが、


我が方は、


生きとし生けるものはみないつか、身罷るのでありますし、


逝った人は、その人のことを知っていた、残った者の、その記憶の中に残っているだけで、


ただそれだけでいいと思っておりますし、


「墓」なるものに、その人が眠っているとも思わない、思えない人ですので、


ただ、静かに、時が過ぎるのを見つめているだけ、過ごしているだけ。


実は、「墓参り」などようのこと、ほとんど致したことがございません。


自身がくたばって、この「うつし世」から消え去る時がやって来ても、


「墓」なるものに納めて欲しいとは、じぇーんじぇん思いませんし、


「墓」なるところに納められても、それを守っていく人など、どこにもおりませぬですゆえ、


焼かなきゃならんのなら、焼いてください。


きれいに焼いてください。


何も残らぬように焼いてください。


と、思うのですが、


そーゆー遺言残すのって、


それはそれで、結構、面倒だったりするみたいですから、


ことさらに法的に効力のある遺言なんちゅの残すつもりは、今も、将来的にも、ございませんのですが、


その時が来たら、


灰になるまで焼いてしまって、植物の肥やしになるならそうして頂いて、


覚えてる人は、覚えていて、覚えるつもりのない人は、別に覚えていてもらわなくても、


それで、オーケーです。


灰。


あいや、 はい。