コドモは誰のもの

ウチにはコドモがおりません。


別に、作らないという強い意志からそうしたわけではなく、自然の成り行きで、そうなっただけ。


なのですけれど、


コドモのいない人生は、それはそれ、そういうものだと思いながら、
ボクに関していえば、他人様のお子たちの教育に携わりつつ、日々を過ごしております。


先日、


大阪市立中学校長の、「女性にとって子どもを2人以上産むことは、仕事でキャリアを積む以上の価値がある」という発言がありました。
この方、伝えられるところが確かなら、いわゆるひとつの「愛国主義者」。


かなり偏向しているようですし、取り合う必要もない、くだらない人物だと思われるのですが、
こういう輩が、公立中学校の校長を、定年後も再任用されて勤めていたということが、


現代のこの国の抱えている闇を象徴しているように思われます。


その一方、女優・山口智子女性誌のインタビューで、
「子どもを産み育てない人生を選んだことに一片の後悔もない」と語ったことに対して、賛否両論、反響が大きかったことも巷間伝えられておりますが、


そもそも、


「コドモを生み育てなかったことを後悔していない」という一個人の発言に対して、
それを讃えるのも、目をつり上げて批判するのも、おかしな話……。


それは、その人個人の、自由でしょ。


コドモが欲しかったけれど、持てなかったことを後悔する人がいても、それはその人の自由。
欲しかったコドモに恵まれて幸せだったと語る人がいても、それはその人の自由。


それをことさらに讃えたり、批判したりしなければならなくなっているという状況もまた、


この国の病が進行していることの象徴だと思うわけです。


子を持つ親で、経済的に余裕のある者は、いつまでもどこまでも自分たちからコドモを解き放たず、
大学入学に際しては、スーツを誂えてやり、何が楽しいのか、大学の入学式にまでいそいそ付いて行きたがる。


子を持つが、余裕のない親は、まだ経済的には勿論、精神的にも支えが必要な年齢の我が子に自活を求め、手放したくてうずうずしている。


両極化が進行する中で、


 深刻な少子化がこの国を滅ぼす。


とか、


 子を産むことは社会のため。生まないオンナは役立たず。


などようの論理が、一定の支持を受ける。


コドモは、国家や社会のために、生み育てるわけじゃねーでしょ?


そんなこと、本気で思ってたら、


お国のために死んで来なさいという時代がまたやって来ても、疑問を抱かなくなっちまいますぜ。


「民主主義」というのは文字通り、


国家権力を維持するために民があるんじゃなくて、民のために国家が奉仕するのですけんね。


そこんとこ、どーぞ、よろしく。