態度としてのアート

各大学、全国各地で卒業式の季節。
SNSにもそれらの様子散見され、振り袖に袴、その他もろもろ……、


三十年前、「式」というものに関心ないオレ、自身の卒業式、出席する気もなかったが、
免許状・証明書の類、この日に受領しなければ、後日発送になると言われ、提出せにゃならん関係各所の締め切りに間に合わないと面倒なので、
普段着のままのこのこ遅参、最後の最後に書類の受領のためだけに赴いたので、何の感慨もありゃしないのでありますが、


京都市立芸術大学、今年度から鷲田清一さんが学長に就任されていたそうで、先に執り行われた卒業式の様子と式辞がUPされているのを眼にして、


こういう式や式辞なら悪くないね。と、思った次第。



  一人ひとりが異なる存在であること,このことはいくら強調しても強調しすぎるということはありません。
  だれをも「一」と捉え、それ以上とも以下とも考えないこと。これは民主主義の原則です。
  けれどもここで「一」は同質の単位のことではありません。一人ひとりの存在を違うものとして尊重すること。
  そして人をまとめ、平均化し、同じ方向を向かせようとする動きに、最後まで抵抗するのが、芸術だということです。


  その意味で芸術は民主主義の精神ときわめて近いものなのです。


  芸術は何か人びとの鑑賞にたえる美しいものを創り上げる活動というよりは、
  日々の暮らしの根底にあるべき一つの〈態度〉のようなものかもしれません。
  死者をどう弔うかという態度。他者の悲しみにどう寄り添うのかという態度。人びととどう助け合うのかという態度。
  政治的なものにどう参加するのか、さらには自分自身にどう向きあうのか、
  生き物としての、あるいは身体としての自分の存在にどうかかわっていくのかについての態度、
  それらを貫く一つのたしかな〈態度〉として芸術はあるのです。


  芸術が国家よりも古い《人類史的》ないとなみであるというのは、それがどんな時代にあっても人びとの暮らしの根底で働きだしてきたからです。
  それを深く経験しはじめているみなさんには、これからどのような場所で、どのような職業をつうじて芸術にかかわり続けるにしろ、
  芸術をつうじて、同じ時代を生きる人びとの歓びや悲しみ、苦しみに深く寄り添い、
  どんな苦境のなかでも希望の光を絶やさぬよう、力を尽くしていただきたいと思います。



オレは国語教師ですけれど、高等学校の「国語」って、「文学」ですから、「芸術」ですから、
こんなこと思って今までやって来たし、残りの時間も、〈態度〉として芸術とかかわっていくつもり。ですのねん。