ボクの立っている場所
東京オリンピック開催にまつわる、
国立競技場建設や、公式エンブレムにまつわるすったもんだ、
ハナから、この国におけるオリンピックの開催に大が数十個つくぐらいに反対だったオイラからすると、
それ見たことか。
なわけで、
そりゃ、選手としてのピーク時に、自国で開催されるオリンピックに出場したいと考える選手たちの気持ちはわからないではないのですけれど、
今、この国でオリンピックを開催したいと考える、その中心にいる人々の考えていることは「金」なのです。
「金」を儲けることを悪いとは言わないけれど、彼らは、国民全体をあまねく利することを考えているわけではなく、
ごく少数の者どもだけが利することのできる組織構造の中で、
「さぁ、儲けるぞ!」と舌を出している連中を喜ばせるだけのオリンピックに、何の意味があるというのだろ?
そしてそれは、「安保法案」にも同じことが言えるわけで、
複雑化し、緊張状態の高まる世界情勢の中で(ということがすでにして眉唾なのですが)、この国の平和を守るため、など言うのは口先だけの話であって、
この法案が通れば、今までは自由に売りさばくことのできなかった武器や弾薬を、
同盟国への支援援助という公明正大なお墨付きの元に、
大手を振って売りさばくことができるようになる企業経営陣が喜ぶだけのことであって、
そもそも、「集団的自衛権」なるものは、中国や北朝鮮の攻撃からこの国の安全を守るためのものではありません。
中国や北朝鮮が、我が方のことを、根拠のない誹謗中傷で罵ってくることが気にくわないのであれば、
あぁ、哀れな人たち愚かな人たちだなぁと、オトナな対応するのが賢い選択というものでしょう。
同じ土俵で罵り合って何がしたいのでしょう?
殴り合って、どちらが正しいか、いや、強いかを確かめたいのでしょうか?
だいたい、
あちらの方々におかれますところの阿呆な方々というものを、我が方においても阿呆な方々がそこそこいるのと同じことだと、なぜ思えないのでありましょうか?
こちらはみな清く正しく美しく賢いのに、あちらはみなどうしようもない阿呆ばかりであると、なぜ言い切ってしまえるのでしょうか?
あちらの国々で、嫌日を煽る連中が何を考えているのか?
我が方で、嫌韓・嫌中意識をかき立てたい連中が何を考えているのか?
そこに着目すべきなのではないでしょうか?
国会議事堂前の、「安保法案」反対のデモに集った人々、
そのすべてが、単なるお祭りノリのバカな若者であるかのような報道をするメディアが、あのデモの真実の姿を捉えているのかどうか、
立ち止まって考える必要があるのではないでしょうか?
ボクの知る限り、至極マトモで、冷静で、頭脳明晰な人たちも数多く参加しておりますよ。
そして、
主催者側は、あそこに集った人々を、周辺の支援者込みで12万と発表し、警察当局は3万と発表する。
多く見積もりたい人と、少なく見積もりたい人がいる。
現在ただ今、行われたことですら、あったことですら、本当のところはわからない。
かつて、あったと言われる南京大虐殺における被害者の数、従軍慰安婦として徴用された人の数、
なかったといいたい人がいる。少なく見積もりたい人がいる。多く言いたい人がいる。
本当のところは、わかるはずがない。
わかるはずがないことを前提としながら、
なかったといいたい者と、少なく見積もりたい者と、多く言いたい者が、
それぞれに歩み寄り、折り合える接点を見いださなければ、物事はいい方向には転がらないんじゃないでしょうか?
要は、この国の将来を、自身が得をするように動かしたい者がいて、そういう者どもが、この国の舵を取る人たちに対して大きな力を持っているということ。
そういう者どもが、一般庶民と呼ばれる、下々の生活や将来のことを大事に思ったりすることは、決してないということ。
自身が庶民であるならば、ともすれば、権力から踏みつけにされ、使い捨てにされ、見捨てられる側に立つニンゲンであるならば、
そのことを忘れないようにしなきゃダメだと思う、ボクなのです。