アタマん中はアクティブだった

とゆーわけで、


まだ夏は終わってないけれど、3年生の夏休みが終わって、授業開始。


でもって、午後、出っ張り。「教育課程協議会」という各校から必ずひとりは出席せいという押しつけがましいやつ。


学習指導要領に基づいた授業、観点別学習状況評価、生徒を主体とした授業づくり云々……。
生徒たちに討議させたり、グループ活動させたりする、「アクティブ・ラーニング」の実践報告。


授業の中身や展開を工夫し、活気のあるものにするのは決して悪いことではございませんし、
若手教師が、委員会の人間に尻叩かれながら実践して、その結果を発表した授業も、おもしろいとは思いますですが、


そして、オイラもそーゆー形態の授業をぜんぜんやらないわけじゃねーですが、
ちょくちょく折に触れ、そーゆーことも導入致しているのですが、


毎度毎度、こーゆー授業ばっかやってたらどーなるのか、考えりゃすぐわかるだろーに、
文科省や府教委は、「アクティブ・ラーニング」、「アクティブ・ラーニング」と、オウムのように繰り返している。


画期的な面白い授業を展開できるなら、そのための準備に時間がかかるのは、仕方ないとして、
毎度毎度の授業に評価表拵えて、クラス生徒ひとりひとりをぶれなく公平に評価して行けるだけの時間の余裕があるでなし、
何よりも、次年度の一年間を見据えて詳細な指導計画を立てるなんちゅこと、できるものならやってみてください。
卒業、進級判定や、入試選抜業務が終わったあと、新学期の準備しながら、そんな時間、どこにあるんでしょか?
新しい教科書の中身を全部読むだけで精一杯ですぜ。読んでない人の方が多いと思いますぜ。
オレだって、毎年、新学年が始動する前に、すべてに目を通せているわけじゃねーですぜ。


そして、


知識を「活用」することを重視する教育へ。など言うのですけれど、
毎時間、討議やグループ活動、しかも視聴覚教材てんこもり、のようなことばかりやらせていたら、どうなるか?
肝心の教科書本文の読解は、遅々として進まない。2時間で読める教材が4時間かかる。4時間で読める教材に6時間を要する。
一年間に読む量が減れば、それだけ、生徒に与える知識も情報量も減少する。知識がなければ活用もできない。


さらに、


心静かに自らの目で活字を追いつつ文を読み、人の話を集中して聴きながら、その要点を自らの手でまとめるという能力は確実に減退する。
読み、問いかけに対する答えを自ら考え、教師の言葉を聞くことで、思考のありようと言葉の使い方を精査するという、ベーシックな授業に堪えられない生徒を大量に作り出す。


今でさえ、ただでさえ、多くの生徒が、できなくなりつつあるのに、そんな人間に、何をどう社会で「活用」させるというのか?


これって、「国語」という教科においては致命的なことなのですけれど、


ちょっと考えればわかることなのですけれど、


アホのひとつ覚えのように「アクティブ・ラーニング」、「アクティブ・ラーニング」と、阿呆のようにおめく者ども。
んなこと、気の利いた教師は、昔から、適宜織り込みながら授業を展開しとるっつーの。


生徒たち、みんなでわいわいやるのは、そりゃ、ただ黙って人の話を聞いているより楽しいだろうさ。
元々イヤイヤ勉強しているさせられている、学びに対しての動機が低い生徒にとってはその方がいいだろう。


でも、どこもかしこもそれがイチバンと言い出せば、「かしこ」の能力をスポイルしちまう。
ま、基本的に、国家というヤツは、じっくり物事を考えて批判力を備えた「かしこ」を作りたくないのでしょうけれど。


旧来型の講義形式の授業の中で、読むこと聞くこと考えることを学び鍛えられてきたはずの「国語教師」が、
講義型の授業が通用しづらい生徒を前にして、語ることを諦めた時に考えたのが、「視聴覚教材」や「参加型授業」。


それこそが、最新最高の授業の形! のようなこと言われて、なぜ疑問に思わぬのか?
どうして、「ほほぉ、時代はアクティブ・ラーニングなのですね」などようの反応をしているのか?


講義型、対話型で培って来た教師としての資質やスタイルを、真っ向から否定されてるんですぜ?


オレは、自分の出た高校、全体として好きじゃないこと多かったですけれど、
オーソドックスな設問投げかけ型、持てる知識と情報を語る型、解説する型の国語教師の授業は好きだったよ。
授業の形態こそパッシブでも、オレのアタマん中は常にアクティブでしたよ。


オレとしては、文学文芸の知識の蓄積もなく、語ることを持たない国語教師なんていらないんですけれど、
どうやら、世の中は、そういう国語教師を必要としていないらしい。


まったくもって、教育に関する話、どこへ行っても、聞こえてくるのは腹立たしいことばかり。
それを受け取る人々の反応もまた、苛立たしい限り。


何かを変えたがっているヤツ、過去あったものを否定したがるヤツらが、何を思ってそうしたがるのか、
とりわけ、戦後の教育を否定して「再生」したがってるヤツらが何を思っているのか、


どうして、考えないんだろうね?