キーワードは「繁栄」

国家として、誰も殺さず殺されず70年。


安保法案云々で、「きな臭さ」いや増す中、思うのは、
ボクは護憲派で安保法案断固反対なのだけれど、反対派も賛成派も、


首相談話の中にある、
「より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす」


と言うコトバそのものに、眉をひそめる人、異を唱える人はほとんどいないのではないか?ということ。
法案に賛成であれ反対であれ、「繁栄」を問題視する人がいない、疑問視する人がいないのではないか?ということ。


元々、紛争や軋轢や衝突というものは、他を差し置いたところでの「繁栄」を願うところから発しているということをみな忘れているのではないか?
ということ。


「切り拓く」の「拓く」がいみじくも、「開く」ではなく「拓く」の文字が使われているのはなぜなのだろう?
「拓く」は、物理的な行動を伴いつつ、元々そこにある何者かを押し退けるというニュアンスのあるコトバ、


地球上にある資源は無限ではない。そして、地球上の富もまた、無限ではない。
地球上に住むニンゲン全体の、ほんの1割の者どもが、世界中の富の半分を所有するようになったといわれる現在、
「繁栄」の正体は、そんな資源や富を奪い合うこと。奪い取った者がいる裏には必ず奪い取られている者がいる。


首相は、「経済のブロック化が紛争の芽を育てた」、
だからこそ、「自由で、公正で、開かれた国際システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまい」ると言う。
「繁栄こそ、平和の礎である」という。


そのコトバには明らかな嘘がある。誤謬がある。
個々の国家や民族の繁栄を願うところに、世界の繁栄などあり得ない。誰かの繁栄の裏には、誰かの貧困がある。


安保法案に反対する者たちの多くも、実はそのことを理解していないのではないか?
日々の過剰とも言える繁栄を享受しながら、し続けたいと思いながら、平和を願うのも実は白々しい。


数年に一度スマホを買い換え、クルマを買い換え、夏冬にエアコンを使い続け、一日に何度も風呂に入ることを当たり前のことと思いつつ、
「繁栄」を口にしながら、同時に「平和」を訴えるのは、何かが違わなくはないか?


金銭的な「豊かさ」にすがりついている限り、そこには真の「平和」などあり得ない。それはアメリカという国家が証明している。


「平和」を棚上げにしてまでも「豊かさ」を手にしたいかどうか、それがこの国の未来の道筋を決定するのだと思う。
そして、ここ十数年、そう思う人たちの選択が、この国をここまで導いてきたような気もしないではない。


どこかの誰かさんの利益のための争いに命を捧げねばならぬ者が出るぐらいなら、「貧乏」の方がマシだと思うから、
「貧乏上等」と思っているボクは、護憲派で安保法案にも反対なのだけれど、


なるほど、そうかと、思う人はたぶんどこにもいないんだろうな。


そんな、「終戦記念日」という名の「敗戦記念日


出掛けるの、4度目だと思っていたら、すでに5度目となっていた、恒例の、



あうんさんすうじぃ・ワンマン at HARD RAIN


この人の吐く「毒」は、真っ当。それはきっと、「金」よりも「愛」の人だから。
今年で13回目になるようだけど、20回まで続けられますように。