文学は死んだのか
「免許更新講習」2日目
今日のお題は「定番教材の解釈と鑑賞」
どアタマに登場した、本日の「仕切り」を担当してござるセンセ、学習指導要領がどーたらこーたらという話をするだけのことはあって、
「文学畑」とは思えぬ「お役人体質」、石頭固吉。ニンゲンとしての面白みというのが欠片もございませんで、
なんだかんだで上手く立ち回ってるんだろーね。というのがパッと見ただけで伝わってくるお方。
オレはあんたのよーな人が大嫌いなのだな。なのだよ。
出だしから、暗雲立ちこめる2日目、どーなることかと思ったら、
2番手、3番手、4番手に現れたのが、
『竹取物語』は、書写と改作が重ねられた末、今のような形になりましたのです。
そういう経緯と経過を辿りながら、若い人たちと一緒に読むと面白いですわよ。おほほ。
という女センセ、
『平家物語』を通して、平安〜今に至る言葉遣いの変化を見るといろんなことがわかります。
「が」と「の」の違い、アタクシ、迂闊にも今まで着目したことございませんで、目から鱗。
侍は本当に「ござる」と言っていたのでしょうか、言っていたとして、それはいつの頃からか?
「おじゃる丸」は平安朝からやって来たそうですが、平安期に「おじゃる」という言い方はなかったんですよねぇ〜。
という、アタマのてっぺんからつま先まで、いわゆるひとつの文学オタクですよね?といった女センセ、
オイラもそれなりの「文学オタク」でございますゆえ、それぞれに、そこそこ興味深く、
そして、この方たち、いずれも吸収統合された「女子大」からこの大学にやって来られた方々、
吸収統合された後、この大学は、「理系大学」として学部学科の改編が進められ、もはや「文系学部」が残っておりませず、
講義授業は教養科目のみ、文学を専門とする学部生はどこにもいないという悲哀の中で仕事をしてござる。
そんなブルーを全身で体現しているセンセがラストに登場(笑)
講座の名前に「文学」と付けると、履修登録する学生がほとんどいない。
登録した数少ない学生相手に、それでも真面目そうな学生相手に、鴎外の『普請中』扱ったら、興味関心全力でなさそうな空気が立ちこめ、
授業のあと学生から「センセ、これって小説なんですか?」と尋ねられたという。
鴎外が何者であるのかを、小説というものが何であるのかを、まず話さねばならなかったのだとは思いもよらなかったという、嘆き節。
彼らにとって、小説って何なのだろう?もはや、世界は文学を必要としていないのだろうか? という嘆き節。
このセンセ、本日のお題「定番教材」の中、
村上春樹『鏡』が多くの高等学校の国語教科書に採られております。
今日は、その『鏡』について……、
と、話し始めたものの、
いつの間にやら、話題は漱石の『こころ』に移り行き、
「K」の死後、「静」さんと結婚した「先生」は、自らのエゴの内に、「K」のエゴが入り込んだ男として生きることを余儀なくされたのです。
ここには、西田幾多郎のいう「否定による自我の存立」が描かれております。
と、熱く語り出され、春樹の『鏡』と『レキシントンの幽霊』の話は、時間がなくなり大胆な巻きが入ったのでして、
文学畑のオイラも少々唖然。センセ、そりゃ、理系の学生たち、ドン引きしますって。
でも、このセンセの方が、ラストにも登場して、一日の感想書かせるだけなのに、
論理的に、何をどれだけ理解し、どんな思考をしたのか、そして、現場に戻って何をどう実践するかということのすべてを盛り込んで書いてください。
それを評価の対象と致します。免許更新制度そのものについての意見は書かないでください。「では試験をします!」
と、厳粛さのオーラを醸し出しながら、
ちゃっちゃと書き上げたから、さっさと提出して帰ろうとするオイラに、
「まだ時間内ですからっ!」と、掌突き出して制止する、融通ということを知らない石頭固吉、すかんタコ
より、ずーっと好きでした。しょーもないヤツだわ、石頭固吉……。
でもって、もう一日行かなきゃならんのですけれど、2日通ってわかったこと。
文系のような「学域学類」まだ残ってるように見えるけど、文系のセンセが身の置き所に窮している大学、
文系の学生が行くところではございません。行ってはいけません。
大阪府立大学。ま、元々、理系寄りの大学でしたけどね。