絶望という名の電車

  文科省は8日、国立大学に、既存の学部の見直しを通知。
  主に、文学部や社会学部など人文科学系の学部と大学院について、
  社会に必要とされる人材を育てられていなければ、廃止や分野の転換の検討を求めた。


要は、「金」にならないことを、税金=国費を使って学ばせる必要はない。
学問・教養は「金」のためにある。「金」にならないことには意味などない。


ということを、真顔で謳っている。


こういう発想が、国を動かし、そうだよね、それが当然だよねという共通理解が、通奏低音としてこの国に鳴り響き始めている。


このことを伝える新聞も、有識者らしき者の意見を添えてはいるものの、社としての考えは伝えない。
そして、どこからどう選んできたのか、この有識者の発言も、また及び腰。
「何言うとんねん、アホもたいがいにせぇよ」とは決して言わない、言えない。


この通達、


文学や芸術というもの、「金」にならないものなら、経済効果をもたらさないものなら、いらないですから。
ということを、臆面もなく公言している。文化・芸術・芸能というものの持つ価値をベーシックなところで否定している。


「金」にならない絵画や、「金」にならない音楽や、「金」にならない小説は、いらないのだと断じている。


もっと有り体に言うなら、


たとえ「金」になるものであっても、文学や芸術なんて、ホントはどーでもいーんですよ。そんなもの、大学で学ばなくてもいーんです。


と、言っている。


人文社会系は成果が見えにくいと、ほざきこく文科省


文学や芸術は、「生きる力」として、個々人の心の中に根付くもの。見えにくくて当然。なのです。
なんでもかんでも、「金勘定」で判断することそれそのものが間違っている。


のだけれど、


そうは思わぬ連中が、或いは思っていても、エリート・キャリアたちは、時の政治や権力におもねって、尻尾振って動いている。


  「金は必要だが、重要ではない」


という人生の摂理を鼻で嗤いながら、遠く離れた高みで蠢いている連中が、この国をほしいままにしようとしている。


高みで起こった動きは、すぐに直下に降りてくる降ろされる。
高校も中学校も小学校も幼稚園も保育園も、「教育」の現場には直ちに降りてくる。


社会有為の人材となれ。稼がないヤツ、稼げないヤツは無用。格差などあって当然。人権なんて、二の次三の次ですぜ。という発想が許される。


腐ったヤツらが、計算ずくで腐っている連中のお先棒担いで、ちぎれんばかりに尻尾を振って動き回り、引っかき回す。


絶望という名の電車に、


オレは乗りたくはないし、 乗らない。