いちばん大事なもの それは俺の自由

もうほとんど絶滅危惧種に認定されているところの「日教組」嫌い、「サヨク」嫌いな方々が、
毛嫌いしている と言っても良い丸山眞男の『「である」ことと「する」こと』


授業で読んで、今回の「現代文」のテスト範囲なのですけれど、


「どうにもこうにも、何が書いてあるのか、何を言わんとしているのか、授業を聞いてもぜんぜんわかんな〜い!」
という生徒さんたちがやって来られまして、
それも、オイラが担当しているクラスじゃなくて、他のセンセが担当しているクラスの生徒さんたちがやって来られまして、
やって来た時には、担当のセンセいなかったり、別のセンセに教えてもらいたかったりで、


結局、オイラがお相手致すのですが、
オイラは「日教組」でも、「サヨク」でもないし、丸山の言うことや論旨の運び方、全面肯定するわけでもないのですけれど、


生徒さんたち、そもそも、このテクストの中で丸山の言う、「近代化」というのが何を指しているのかがわかっていらっしゃらない。
丸山は、交通の便がよくなることでも、高層ビルが乱立することでも、科学技術の発達によっていろいろ便利になることでもなく、
封建社会」から長い年月を経て脱却し、「民主主義」という制度システムの中で我々が生きることになったことを「近代化」と言うておるのであります。


が、


戦争を知らない子供たち」どころか、齢70オーバーでなければ、戦争を知らないという現在、
大多数のティーンズにとって、この国が「民主主義」、「国民主権」の国家であることは、当たり前に過ぎることであって、
それを、市民ひとりひとりが自覚を持って、守っていかねばならないものなのだ。という認識はほとんどないようなのである。
きっと、もはやオイラよりも年下の人たちが多いと思われる、彼彼女らの親の世代にしても、そうなのだろうなと思う。


我々は、「基本的人権」を保障され、自由と平等を標榜する社会の中で生きることを許されております。
国家・権力は、国民の平和と安全を守るために、国民に奉仕するために機能致しております。


が、


投票という、政治に参画する権利を有している人々の、半分しかその権利を行使しないという、「民主主義」が聞いて呆れる中で選ばれた連中が、
この国の舵取りを任されていて、国家が国民を守るのではなく、国民が国家を守る国に戻そう戻したいと躍起になっている。


「民主主義」の根幹であるところの「基本的人権


第十章 最高法規  第九十七条
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。


という条項、


自民党憲法改正草案」において、
その全文が削除されていることを、果たして何人のこの国の人たちが知っているのだろう?


私たちから「人権」を奪い取ろうとしている連中を、どんな人たちが、何を思って支持しているのだろう?


丸山は、与えられた「自由」や「権利」に安住しているだけでは、気づいた時にはそれは失われているかも知れないと警告する。
「自由」や「権利」は、それを行使することによって守られる。と言う。


与えられたものを「当たり前」に思う人が増えすぎたのかも知れない。
「自由」や「権利」の持つ、その重さを考えない人が増えすぎたのかも知れない。
この国の「民主主義」が、国民市民が血を流して自ら手に入れたものではないからなのかも知れない。


第十章 第九十七条 が、削除される時、この国の国民から「人権」が喪失します。


それが、どういう意味を持つことなのか、みんな、わかってるのか?


わかれよ!