皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係も
どーせ、一度限りの人生、
楽しく過ごすに越したことはない。
のだけれども、
自分だけが楽しけりゃそれでいーのか? という良心は持ち合わせている。
ブログやSNSに於いても、
楽しいことやハッピーだったことばかりに目を向けて、そういうことどもを発信していればいいのかも知れない。
のだけれども、
自分だけが楽しければそれでいーのか、オマエは? という良心が、
「どこそこでうまいもん食いました」とか、「これこれこういう楽しいことやりました」などようのことばかり発信することにブレーキをかける。
というより、
「うまいもん」食べ歩いたりしてないし、「楽しいこと」はその基準が世間一般とはずいぶんかけ離れている。
仕事に於いては、
「文学」というヤツ、「文芸」というヤツを、ティーンズと一緒に読み解いている。
「文学」とか、「文芸」というヤツ、
決して、己がハッピーになるため、それだけのために存在しているものではありませず、
己と、それを取り巻く世界や社会と自身との関係や、他者の痛みというヤツを感じることで、知ることで、
無理難題かもしれんのだけど、この世界に生きている、少しでも多くの人が、ひいては己がシアワセになるにはどーすればいいのか考える人になりましょうや。
ということを、やらかしている。
にもかかわらず、
現場では、個人のシアワセのためのスキルアップを培う場所として、それをフォローしてやる場所としての側面のみが強調され、機能していて、
それが、日々、加速されていて、
そのことに疑問を抱く者も、今、世の中で、起こっていることを、今、学んでいることとリンクさせて語ろう、考えさせようとする者も、
どんどん少なくなっている。
音楽の現場でも、
その時、その場に流れる音の洪水に身を任せて、楽しむことを目的とする音楽があって、それを否定する気は毛頭ないし、
ロケンローというのはそのためにある音楽なのだと思うし、それは音楽の役割として、重要な要素だと思うのですけれど、
己の身の回り半径5m、多く見積もっても10m以内のことしか考えていない者が、世界観ともいえないコトバや音を垂れ流してるのを見聞きすると、
偏見や憎悪や暴力に彩られることのない世界を、オレは、仕事でも、音楽でも、希求しているオイラは、
いたたまれなくなります。
「殺された同胞の仇を取ろう。ならず者集団にはヨルダンと共に報復しよう。それができない憲法なんて、もういらない」
などようの、とても正気の沙汰とは思えない言説を、社をあげての主張として掲げる新聞がメディアが、
この国の、少なくない人々に支えられているという状況にまで至っていることを、
そういうメディアが、今のこの国の政権を後押ししているという状況を、
そして、
そんな状況の中、
大多数の人々が、そういうことをさして気にするでもなく、「うまいもん」食べたり、「楽しいこと」やったりすることに血道を上げていることを、
途轍もなく悲しく思っております。
どこへ行くんだろうな、この国は……。