果実よりも花

『「である」ことと「する」こと』


ボクが生まれた頃の文章言葉、古色蒼然としている部分がないでもない。論旨が判然とせぬところもないでもない。
例示が独善的に過ぎ、適切でないように思われるところもないではない。


が、トータルとして、今読んでも面白いところは多々ある。


その中で、丸山眞男が引いているアンドレ・シーグフリードの言葉が、


「果実よりも花」


教養とは、いわゆる物知りとしての教養ではなくて、「内面的な精神生活」のことをいう。
しかるべき手段、しかるべき方法を用いて果たすべき機能が問題なのではなくて、自分について知ること、自分と社会との関係や自然との関係について、自覚をもつこと、これが問題なのだ。
だから、芸術や教養は、「果実よりは花」なのであり、そのもたらす結果よりもそれ自体に価値がある。


「もたらす結果」と「それ自体」を二項対立とし、「結果よりもそれ自体に価値がある」と断定することが正しいのかどうか、この点に議論の余地があるようには思うけれど、それはさておき、


「教養」や「芸術」に、「大衆的な効果」や「卑近な「実用」の規準」を過剰に持ち込むことがそれらのありようを歪めてしまうことは、万人がそれとなく理解している。
「大衆に人気のある」もの、「実用の役に立つ、金になる」ものだけが価値のあるものでないことは、みなそれを知っている。


にもかかわらず、


金にならぬもの、実生活に直結する形で役に立ちそうにないものは切り捨てる能率主義・効率主義を限界まで突き詰めようとする風潮には、ますます拍車がかかっている。


それは、他でもない、「教養」の死、「アート」の死を意味する。


歴史を振り返るまでもなく、政治の世界は、「教養」や「芸術」を、自らの「実用」のために利用してきた。
「教養」の死、「アート」の死は、個々人の「内面的精神生活」の死を意味する。


「教養」や「芸術」は、自身を振り返り、自身の立ち位置を確かめるためにそこにある。


  〜  金は必要だが、重要ではない  from "Night on Earth" by Jim Jarmusch