未来はキミらの手の中
日々接しているところの高校生
これこれこういうものを学びたいから、これこれこういう大学に進みたいと思う。という者や、
これこれこういう者になりたいから、これこれこういう大学に進みたいと思う。という者がいる一方で、
特に学びたいものがあるでなし、なりたいものがあるわけではないけれど、これこれこういう大学って、カッコよさそうだから行きたい。という者もいて、
学びたいものあるでなし、なりたいものもあるでなし、さぁどうしましょ?と、いう者もいる。
他人様はどうしようもないので、最後は自らで選択するしかないのですけれど、
自分探しやら、なりたい自分やなれる自分、などようのこと言い続ける、言われ続けるのってどーなんだろ? と、思う。
ガキの頃から強い意志を持って野球選手になろうと思っていたイチローや、サッカー選手になろうと思っていた本田の話が引き合いに出されるけれど、ガキの頃から、将来の自分について確かなイメージを持てるというそのことの方が、極めて例外。
というより、彼らは、確かなイメージを持っていたけれど、そのイメージが実現しなかった多くの連中の氷山の一角。
小学生の時、「ボクは世界で通用する野球選手(サッカー選手)になります!」と作文に書いた、あまたあるガキの中のふたりであったというだけのお話。
ガキはおろか、高校生にも、確かなビジョンを持ちたまえ、なりたい自分を見つけたまえ、など言うことは、酷だと思う。
もう高校生なんだし、己の進路は己自身でよく考えて決定しなさい、するべきだ、しろ。などようの圧力をかけるのも酷だと思う。
オイラは、
これこれこういうものを学びたいから、これこれこういう大学に進みたい。という発想で、進路を自ら決定したけれど、
今、もう一度高校生やり直すとしたら、同じ進路をたどるとは到底思えない。
かといって、もう一度やり直せるならどんな進路を選ぶわけ? と言われても、その答えを持っているわけではない。
大学だけが人生じゃねーぜ。と、思っちゃいるものの、大学行かずに何か目指すものがあるのかと言われると、それは実に心許ない。
教師になりたいというビジョンを抱き、そのビジョン通りに教師となって今に至る人たちとは大違いなのでありますから、
そんなオイラと懇談したところで、実のところなんの参考にもなりゃ致しませんぜ。と、思うのですけれど、
今日も、懇談、あれこれ……。
ただ、
何をしたいかしていいか、選択の自由がそこにあるのなら、そのことをまずラッキーと思うところからスタートすればいいと思う。
選択の余地のないところで生きていかざるを得ない者は少なくない。
だから、
自らに与えられた自由は、思う存分使わなきゃ、損だと思うよ。
オレにしたところで、残り少なくなってきた時間の中で、
与えられた自由、自らの手で獲得してきた自由は、存分に使おうと思っておりますから。
さ。