ソソソクラテスかプラトンか

ニニニーチェサルトルか、みんな悩んで大きくなった♪


ちゅこって、


元々は、心理学というやつを学ぶつもりが、


なんだかんだで、まともに学ぶことなく中途半端になったとは言え、哲学なんちゅの専攻するようになったのは、


ひとえに、


「実存は本質に先立つ」というあの有名な、サルトルのコトバに感心したことがあったからだな。と、


そのことを今さらのように思い出したのですけれど、


要は、


ペーパーナイフというブツは、「ペーパーナイフというのはこれこれこういうものだ」というイデア(観念)がまず先にあり、それが形になってそこに存在している。つまり、ペーパーナイフの場合、「本質は実存に先行している」。
しかしながら、人間というのは、あらかじめ人間とは何か、どのような役割を担っているのかという本質が決定されているわけではないまま、この世に生まれ出てくる。そして、その後、人は自らがなりたいものになるべく、どう生きるべきかというその本質を自ら決定していく存在である。人間は自らつくるもの以外の何ものでもない。つまり、人間の場合「実存は本質に先立っている」。
人は、自らの決断と行動によって「どう生きるべきか」というその本質を規定していく存在である。須く、人間というのはかくも自由な存在なのであります。


というお話。ま、当たり前っちゃ当たり前のことなのですけれど、
じゃ、ワンコやニャンコはどーなるの?という話は、ま、取りあえず横に置いておいて、


この発想を、十代の頃、「おもしれーじゃん!」と思ったのが運の尽きだったわけで、


それならそうで、突き詰めてみればよかったのに、仏語独語ギリシャラテンはおろか、英語もままならんままの哲学専攻、
今に至っても、自らの「なりたいもの」が何なのか、どう生きるべきなのか、わからんまま手探りでよろよろ過ごしてきて、


今日も今日とて、懇談マラソン


なんだか知らぬがこのご時世に、「教師」になりたいというティーンズがうようよしているオレの担当クラス。
「本質」より「実存」が先行しているはずの我々人間の、1割に満たぬ者どもに富を集約させ、その他の有象無象は、お上の言うことただ聞いてりゃいいの、敬ってりゃいいの、あんたたちは何も考えなくていいの、労働力になりなさい、捨て駒になりなさいという、
手前勝手な「本質」を押し付けようというあからさまな態度姿勢で教育行政なるものを推し進めて恥じるところのない、教育というものを取り巻く状況の悪さが、教育というものの意味を損なうにもほどがある中、


素敵なことより、くだらないことの方が多いから、これからますます多くなること明白だから、やめた方が身のためだよと思いながら、
これからは自分の頭でモノを考えない多くの人たちが教壇に立つようになるのであろうな、と思いながら、
今までも、自分の頭でモノを考える人、そう多くはなかったのかも知れんしな、など思いながら、


ティーンズと、その親を交えて、中にはオイラとご同業でもある保護者様もおいでの中で、
ティーンズの将来未来のみならず、ガッコやら教育というものについて話すのは、それなりに有意義ではありましたのですけれど、


休憩なしの懇談マラソン5時間を、二日続きで駆け抜けるのは、


疲れました草臥れました消耗しました……。


むふぅ。