叱りたい人叱られたい人

会社組織における勤務経験がある若い同僚の書いたもの目にして、


はたと思い当たったことがある。


それは、


公教育の現場で働く者は、いわゆる上司というものから叱責されるということがない。
或いは、ほとんどなかったということ。


管理職を除いては、年の差こそあれ、そこで働く者はすべて同僚、
20代の者から60に手が届こうという者まで、上下の差がない。
そして、利潤の追求ということを目的としていないから、損得勘定における失敗や失策というものがそもそも存在しない。


だから、いわゆるひとつの上司というものから、仕事ぶりについて我々はあからさまに叱責されるということがなかった。


無論、仕事における方針や考え方が対立して口論になることはあったし、議論を闘わせることもあった。
時に、年の上下を問わず、あまりの仕事ぶりに、同僚として苦言を呈することもないではなかった。


にせよ、


企業の論理に照らすなら、「ぬるい」環境の中で、仕事のできない者は、できないままのうのうとしているという側面がなかったわけではなかった。


のだけれど、仕事のできない者は、「できない」という烙印を背負って、共に仕事をしたくない相手として生きることになっていた。
でも、生きていけないわけではなかった。


なぜならそれは、そういう教師の存在と接することで、「反面教師」というコトバがあるように、
生徒たちの学ぶこともまた少なくないという側面があることを現場が知っており、少なからずそういう存在を容認していたからだ。


教育というものに、教育の方法に、正しい答えなど存在しない。
ある教師のやり方が、すべての生徒にとってプラスに作用するとは限らない。


そして、学校を卒業していくどの生徒が正しい教育の成果であり結果であるかなど、誰にもわからない。


にもかかわらず、


企業の論理を好んで導入するようになって以来、公教育の現場は、
教員かくあるべし、我々の目標目的は云々、などようのことを日々口にするようになり、
そういうラインに乗り優秀な教員にならんければ……、という強迫観念のようなものが蔓延するようになってきた。


重箱の隅をつつくように、教職員の一挙手一頭足を監視管理し、隙あらば叱責しようと構え、それをすることが自らの職務任務だと考える者が現場の内外を問わず増えてきた。


あの時、あの人に叱責されたことで、ワタシはできる人になれた。


などようの言説が散見される中、叱られたい願望を抱いている者も少なくない。
部活動の指導を引き合いに出すまでもなく、叱られることで人は成長する。という考えを支持する者は我々教員の世界にも少なくない。


でも、


あからさまに叱ったり叱られたりすることがないという組織構造が、


公教育というものの根幹を支えていたということ。
かつての、ある意味「ぬるい」構造が、教育全体をフレキシブルにしていた。


ということは、疑う余地のない事実だと思う。


誤った道を選択し、突き進む中、元の道に戻ることが決してないだろうことが、


この国の、この上ない不幸だと思う。


「ぬるさ」を許容することのない社会、息苦しさは増すばかり……。