賞罰なし
くれるものはもらっておく。
という態度は、それはそれ、ひとつの見識であるかとは思うのですが、
権威というものにおもねる人であるということは否めないわけで、
巷間、「ノーベル賞」云々しておる時節、
ノーベル賞を頂こうが頂くまいが、その人のなしたこと行ったことの中身が変わるわけではないわけで、
ノーベル賞を受賞したから、わーわー騒ぐメディアというのが、
くだらない。
大江健三郎氏が文学賞受賞した時に、付随してくるところの「文化勲章」を辞退したことに対して、それを批判する声あって、
それはそれで、一理あるのですけれど、
今回も受賞を逸した村上春樹氏、
本人がノーベル賞なるものを欲しているのかどうか、
どーでも良いと思いながら、まったく無視できるかというとそうでもないであろう立場を思うと、
完全なる他人事でありながら、ご同情申し上げるのですけれど、
「エルサレム賞」受賞時に、それを頂くかどうかを逡巡した上で、
「高く、堅い壁と、それに当たって砕ける卵があれば、私は常に卵の側に立つ」
と、スピーチした男が、「ノーベル賞」はともかく、「文化勲章」を頂戴するということは容易に想像できませんので、
「ノーベル賞」頂いちゃったりしたら、どーするんだろ?
という興味関心がないわけではないのですけれど、
そういうことができるのかどうかもわからないのですけれど、
水面下で、ノーベル賞受賞そのものも辞退していたりするのではなかろうかと……、
或いは、そういう男には「ノーベル賞」を与えないような圧力が、見えないところで働いていたりするのではないかと……、
下衆の勘ぐり。
「ハルキスト」と称する、気色の悪い集団が、ハルキ氏の「ノーベル賞」受賞を今か今かと待ち受けている図が報道されるたび、
この人たち、春樹氏のことも、春樹氏のものした作品のことも、ぜーんぜんわかってませんやん。
と、
始業式なるものが仰々しく執り行われた職場、全校生徒の前で恭しく執り行われる「表彰」なんちゅの横目に見ながら、
だぁれも、なんにも、くださらない、頂けないボクは思うのだった。
ぷふ。