隠者の憂鬱
"隠者の夕暮れ"と言えば、ペスタロッチですが、実は、まともに読んだことございませんが、
隠者の憂鬱。
退院したとはいえ、
一日に一度か二度の診察がなくなり、看護師さんが差しに来てくれていた目薬を自分で差して、換えてくれていた眼帯やガーゼを自分で換えるようになっただけで、
基本的に、入院中とおんなじ生活。
ただ、入院中、ゆっくり聴けると思っていた音楽は、
いつ何時、診察に呼ばれるのか、体温や脈拍測りに来はるのか、目薬差しに来はるのか、わかりませんので、
両耳にイヤホン突っ込んだまま集中するということができませず、結句、一度もiPodの電源入れて起動することなかったのですが、
自宅だと、音楽が聴けます。
のですが、
音楽を(真剣に)聴くというのは、なかなかに気力と体力を要することなので、
入院中に聴かなかったのは、前記の理由だけのせいではありませず、
なんだかやっと、聴ける感じになってきたというのがホントのところ。
入院中も気丈夫に、へらへらとブログを綴っていたオイラですけれど、
未だにまともに見えない抜糸待ちの右目、医者が、そのうち見えるようになりますというから、
見えるようになるのだろう、と、平静を装ってはおりますが、
眼帯を外すたび、その右目の状態と見え方に不安を覚えないかと言うと、覚えないわけはないのでありまして、
まして、原因も理由もわからない。一万人にひとりが患う、そういう運命だったのです。
と、言われても、己に降りかかってきた運命を、あーそーですか、それじゃ仕方ないですよね。
と、淡々とそれを受け入れているような顔をしながら、
そういう運命に陥ったことを悔やんでも仕方ないこととはいえ、恨まないか、へこまないかと言われると、
恨めしいし、へこまないわけはないのでありますが、
右目がダメでも左目があるさ、と、
鬱々となっても不思議ではないところ、
悟りを開き、諦観の境地に達した修行者のように振る舞っている。
じたばたしても仕方なしと、悠然と構えようとしている。
とはいえ、
ひと月くらい前から、いきなり近くが見えづらくなって来ていたのが、今回の目の不調と関係あるのかどうかわからぬけれど、
見える左目も、文字を読むには眼鏡が必要で、不自由極まりない。
DVDの映画、片目で観る気になれませず、新聞や本を読んでもすぐにくたびれる。
そして、
首から下のシャワーのオーケーは出ているものの、自身での洗髪はNG。
美容院に行って、仰向けになった形で目を覆って洗って貰うようにと言われているのですけれど、
金銭的なことは元より、洗髪だけのために美容院に出向くということへの抵抗は大きい。
ので、
自宅の洗面所で、相方が洗ってくださるということになったのだが、
リクライニング・チェアがあるわけでなし、洗面台を背にして椅子に座って仰向けになる。
というのは、やってみればわかるけれど、相当の背筋力と首の力を必要と致すわけで、
この季節、抜糸まで、一度も洗わないでやり過ごせるとも思えませず……、
かてて加えて、
網膜裂孔や網膜剥離そのものは、飲酒とは直接関わりないとはいうものの、
術後、白目が真っ赤に染まった、糸で縫いつけられている右目に眼帯していながら、飲酒するというのはどうかと思われ、
ご飯とみそ汁とおかずという、酒飲みらしからぬ夕食。
現代に生きる隠者とは申せ、結構つらい。わん。わんわん。