悲しい色やね
本府教育長の、あきれた通達。
ボクは、あの、世間で評判の悪いらしい「日教組」というものにも、特定の政治団体にも、特定の宗教団体にも一切関わったことがないのだけれど、
入るのが当たり前という時代もあった中、「日教組」と関わらなかったのは、
単に、それがどんな集団であれ、何かに従属するとか、徒党を組むとか、群れるとか、が、嫌いだったからで、
「日教組」というものが、世間で言われるほどひどい団体であるとも思わないのだけれど、
寧ろ、今こそ、「組合活動」というものは、かつて以上に活性化せにゃならん。
と、思うぐらいなのだけれど、
「日教組」というのは、もはや、骨抜き。なのですよ。叩くにも値しないほどに。
あきれた通達のどこがどれだけあきれたものなのかは、内田氏が書ききっているので、ボクが補足を加えるまでもないのだけれど、
あえて、言うと、
どこの国でもかまわない。Imagine all the people...
1)ガッコウという場所における式典という場面では、必ず国旗を掲揚し、国歌を流さにゃならんという取り決めがある。
という国を、あなたはどう思いますか?
2)国歌が流れている時は、起立して全員恭しく唱和せねばならんという取り決めがある。
という国を、あなたはどう思いますか?
そして、
3)それに従わない者を血眼になってチェックして、従わない者を見つけた場合は処分する。
という国を、あなたはどう思いますか?
もっと言うと、
ガッコウという場所における式典という場面で、国旗を掲揚するのは、国歌を歌うのは、
何のため?誰のため?だと、あなたは思いますか?
ボクは、この国に生まれた者として、この国のことが好きです。
どこかの誰かさんがやるような、他の国を卑しめたり貶めたりするつもりはまったくないところで、
他の国よりも素晴らしい。などということとは別の所で、この国のことが好きです。
ですから、過去、この国の言葉で語られ綴られてきた数々の知を、青少年に教え伝える仕事をしております。
でも、そこには、国民を搾取し、利用しようとする「権力」の側に立つための「知」や、「権力」にうまく追従するための「知」は含まれておりません。
そんなことを教えなきゃならんのなら、こんな仕事をしておりません。
かつて、
戦前戦中は、目の前の生徒を「お国のために戦いなさい」と叱咤し、
戦後、舌の根も乾かぬうちに、「これからは自由と平等の時代です」と掌を返した、数多くの教員がおりました。
「国語」という教科は、時代の流れに乗って、うまく立ち回ることを教え伝えるものではないとボクは思っております。
人が生きる上で最も大切なのは「自由」と「平等」であること。そして、他者にとっての「自由」と「平等」も尊重しなければならないこと。
何をどうすればいいのか、答えの出ない、その問いに対する答えを共に求め続けることがこの仕事だと思っております。
そして、その考えは、27年と6ヶ月続けてきたこの職業人生で、間違っていないと確信を持っております。
それができなくなった時は、
たとえ自身の生活がかかっていたとしても、己の意志は曲げない曲げられない。と、思ってボクはやって来ました。
実際、数年前には辞職を本気で考えました。今も、日々考えています。
「口パクしてないかどうかをチェックせよ」という通達に何の違和感もないニンゲンであり続ける限り、
そういう人は、何をどう工夫しても、何をどう研鑽しても、
どこまで行っても、中味のない、つまらない教師にしかなれないと思います。
若い人たちに、そういう人が多いことを、知ってはいましたが、
遅かれ早かれ、そんな教員集団によって、この国の教育現場は、
数値的な序列化・格付けだけが効率的に押し進められ、学力の劣化はますます進んでいくでしょう。
イエスマンを報奨し、反抗的な者を処罰する。
教育は、そんな時流の中で、うまく立ち回る者、立ち回れる者を作るための仕事に変わっていくのでしょう。
悲しいかな、
教えている側が、そうなのだから……。
あとどれくらいこの仕事続けているかわからないけれど、
とりあえず、ボクは、あがきます。たとえ、それが、悪あがきでも。