巡礼の年

中学生になって、


それまで優等生だったボクは、取るに足りないヤツになった。
自分で自分のことを取るに足りないヤツであるとは思っていなかったけれど、周囲から見れば取るに足りないヤツなのだろうなという存在になった。
取るに足りないどころか、ある種のニンゲンたちにとっては、どうやら気に障るヤツでしかないようだった。


小学生にして、冷めた目でオトナを見ているボクのことを嫌っていた、更年期に差しかかろうとしていたヒステリックな女性担任は、
オールAをつけるのが癪だったのだろう、通知票にはいつも必ず、「音楽」の学習内容の一部分だけ、低い評価を下していた。


そんなボクは、中学に入って、音楽と体育と国語の成績評価だけが高い生徒になった。
心の底から、楽しいとか嬉しいという感情を持つことのない十代後半を過ごした。


そんなボクも、五十を過ぎた。


そして、『色彩を持たない多崎つくると、……』を読了。


発行部数が百万に達するという小説、そんなものがこの世に存在するという事実が俄には信じられないのではあるけれど……、
だって、赤子から老人を含めた、この国のほぼ120人にひとりが手にしているということなんだよ。


そして、そんな文字通り「万人受け」するものに自身にとって大きな価値が見いだせるのか?とも、思うのだが、


作者が単行本デビューする以前からの読者として、今回も読了。


小説にしろ、映画にしろ、演劇にしろ、絵画にしろ、彫刻にしろ、音楽にしろ、


「あー、面白かった」ではすまされない何かを自分の中に残してくれるものというのがある。
『多崎つくる』は、ボクの中に何かを残してくれる類の小説だった。あー、村上春樹は変わってないな。と、思った。
他の99万9千999人がどう思ったかは知らないけれど……。


この作品でも、いつものように作者は、執拗なまでに「孤独」について語っている。
そして、人が何を「よすが」として生きるのか、について語っている。


誰のために、何のために生きているのか、わかる時は決してやって来ないけれど、
人は自分自身のためだけに生きているのではない。


そんなことを思った。


そして、


古典音楽の著名曲の一部分を聴き、その作曲者と作品名を答えるという、一風変わった音楽教師の行ったテストでは、毎回ほぼ100点ではあったものの、クラシック音楽にさほど詳しくないボクは、「巡礼の年」を聴いたことがなかった。


なかったから、聴いてみた。


「巡礼の年」の作曲者であるフランツ・リストは、自身が卓越した技量を持つピアニストであったらしい。
「ピアノの魔術師」と呼ばれ、「指が6本あるのではないか」と巷間囁かれたらしい。


余命1年のジャズピアニストの挿話と、それに繋がる「6本指」の話は、そこからの連想だったのだろう。
また、エルヴィス・プレスリーの「ラスベガス万歳!」を携帯電話の着メロにして、日々レクサスを売っている「アオ」のエピソードは、プレスリーが映画「ラスベガス万歳」の中で、リスト作曲の「愛の夢 第3番」をアレンジした「恋の讃歌」を挿入歌として歌っていることとの関連で思いついたのだろう。


「6本指」といえば、


ロバート・キャパを思い出す。マリリン・モンローも(手ではなく足の指だったと思うが)確かそうだったと言われていた。
そして何より、音楽を奏でる者としては、ハウンド・ドッグ・テイラーがそうだった。


持って生まれたものを、人は「才能」と呼ぶ。
自身の中にきらめく何かに、気付かぬまま過ごしてしまう者もいる。
気付いたけれど、それを持て余しうまく使えなかった者もいる。
気付いたように思ったけれど、実は勘違いだった者もいる。


「6本目」の指のように、「才能」は目に見えるものとしてそこにあるわけではない。


自分が何を求め、何に向かって生きていくのか?


そして、


死んでいくのか?


そいつはたぶん、わかることはない。


でも、自分にとって、何が必要なのか? その必要なものを手にするために何をなすべきなのか?


それを考え続けることは、決して無駄ではないと思う。


人生、須く「巡礼」なり。