探し物は何ですか?
この仕事を始めてからずいぶん長い間……、年下の新人とゆーのがいなかった。
この職に就いた当時、自身はそういう状況をよくわかっていなかったのだけれど、
オイラがこの職について以降、この仕事におけるニューフェースの採用数は、
児童数の減少に合わせて、年々、減少の一途を辿っていたわけで、
採用数若干名、もしくはゼロの年が十数年……。
その間、
少数精鋭のエリートとして採用されたニューフェースが、
その人にとっては想像を絶したと思われる現場に揉まれて、途中離脱する様を目の当たりにしたこともあったものの、
そんな時を経て今、
「団塊の世代」(「だんこん」ちゃうよ、「だんかい」やで)の大量定年退職に合わせて、
またぞろ大量採用時代が到来。
しかも、名だたる労働条件劣悪な地方自治体に成り下がっております中、
当地においては、積極的な希望者もまた少ないと来ているご時世。
校種科目によっては、受検者のレベルが低すぎて、採用予定人員を確保できないというおそまつ。
そんな中、
先の職場に引き続き、現職場にも、ニューフェースあれこれ、
なんだかんだで、ベテランと呼ばれる域に到達しているオイラは、
試用期間やら、新任研修やらと、こうるさい今のご時世の中、
ニューフェースの教科指導担当。
オイラは、直接誰かに師事して何かを教わったことはなく、学ぶべきコトは学ぶべき人の行いを見、唾棄すべきコトは唾棄すべき人の行いを見て、今に至っている者でありますから、
誰かに何かを教授するなんてこと、柄じゃないのですけれど、
教科指導担当(爆)
期待と意欲に満ちているニューフェース、
思いついたこと、やってみようと思うこと、何でもやってみるがよろしい。と、眺めている。
そんなオイラが思うこと、言えることはただひとつ。
「どう教えるか?」ということも、それ相当に大切ではあるけれど、
本当に大切なことは、
「何を伝えるか?伝えたいか?」ということ。
オイラは国語教師だけれど、
国語教師という仕事は、
目の前にあるテキストを通して、目の前にいる連中に何を語りたいか?伝えたいか?
という、それそのことを己の中に確かなものとして持っていること。だと思っている。
いくら巧みに教えても、中には伝わらないヤツもいる。
でも、40人を前にして、10人、いや、5人の目を開かせることができれば、己の仕事は成功だと思っている。
伝えるべきコトはひとつ。
「生きる」というのが、「死ぬ」というのが、どういうことであるかという命題に正解はないけれど、
自分なりの答えを見つけようぜ。
ということ。
そして、その答えが、エゴイスティックな自我にまみれていないかどうか、己の立ち位置をチェックしようぜ。
ということ。
そこにブレがなければ、
己の声は、届くヤツには届く。届いたヤツもまた、そういう生き方を、そして、死に方を選ぶと思う。
教えることに上手下手ちゅの、ないではない。あると思う。
でも、小手先の受験技術をただ仕込んだり教えたりするだけの仕事なら、
いつまでも、こんな仕事、オレはやってねーよというお話。
あなたもオレも、生きている。そして、そのうちいなくなる。
それはどんな人にとっても同じです。それそのことだけは見事に平等です。
そのことの意味を、たとえ意味がないにせよ、一緒に考えませんか?
というお話を、来る日も来る日も、ボクはティーンズを前に致しております。
はい。