国家より個人が大事、と思いたい

「維新の会」は党大会において、


憲法を変えていく勢力が3分の2を形成することも重要な参院選のテーマ」とし、
現行憲法を「自分でじっとしているだけで平和が維持されるという幻想を日本人に与えてきた」と批判、
綱領では、「日本を孤立と軽蔑の対象におとしめ、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶である占領憲法」と位置づけ、その大幅改正により、「国家、民族を真の自立に導き、国家を蘇生させる」と謳っているらしい。


彼らが、現行憲法の何をどう変えたいと言っているのか、わかっていない人ばかりでもあるまいに、
こういう文言を目にして耳にして、「狂っている」と思わぬ人の方が増えてしまったことを悲しく思う。憤りさえ覚える。


「自分の国は自分の手で守る」


という、パッと見、当たり前のように思える主張をベースに、


軍事力の更なる拡大拡張、軍隊の保持、核兵器の保持、徴兵制の復活、
そして何よりも、武力を以て、進んで他国と争うことを可能にしようとする人々。


周囲が理性的でないのだから、世界が理性的でないのだから、この国だけが理性的に振る舞うことはないという、
彼らの発言や主張の中に、「理性」というものはカケラも存在しない。


現行憲法の中で謳われている最も大切なこと、


「平等」や「人権」


を、彼らが重要視していないことは明白。むしろ軽視していることが明白。


現任校の学校長、今月をもって現場を去るのだが、
この人、歯に衣着せぬ舌鋒で、生徒から保護者に到るまで、大きな支持と人気を誇っていたらしい。


学校WebPageの1コーナーとして、日々、自身の思いを綴っていた彼のブログ、
最後の最後に、こんなことを書いていた。


近現代史をどうとらえているのか、学校でどう教えるべきか」という読者の質問に対して今まで返答しなかったのは、


「公務員の職に就くとき、憲法や法令を遵守する旨の服務の宣誓を行っているから、国や地方自治体が持つ見解以上のことは立場上表明すべきではないから」
「全体の奉仕者(公僕)である者が、みんなで勝手に政府批判や首長批判を言い出すことは許されません。公務員は、場合によっては市民に対し「お上」として「権力者」となるという自覚を持つべきです。個人として護憲論者であろうと改憲論者であろうと自由ですが、公務員の立場で発言するときは、「憲法や法令、上司や上級機関の判断が間違っている」という外部への意見表明は許されません。そうしたいなら公務員の身分を辞すべきです。それがルール」であると述べ、


更に、


「自国の歴史は、自国の現在を正当化する、あるいは権力の正統性を主張するために記述します」
「日本には、「自虐史観」と呼ばれる、自国の歴史を負の側面からとらえ、それを宣伝する人たちがいます。グローバル・スタンダードからすると利敵行為と同義です」
「わが国では、少なからずの教師が長年、その「自虐史観」に基づいて歴史等の授業をしてきた、というのは事実でしょう。学校と言うのは、「全て日本が悪かった」と言えば、正義派・良心派の振りが出来る奇妙な場所ですから。いわば「思考停止」と同じ。愚かなこと、愚かな人々です」
「わたしは愛国主義者ですが、近現代において日本がアジアに対して行ったことが「全て正しかった」という立場はとりません。しかし、現在の視点・観点で歴史を評価するのも間違いです。「今後、同じことを繰り返すべきではない」としても、その時代のその状況で他にどんな選択肢があったのか、「正解」を語れる人はいません」
「ゆえに、思考停止せず、独善主義に陥らず、歴史や政治を見る眼とアタマを養うことが、学校教育でなすべきことです」


と言う。


ここ数十年、教育現場で、そこを管理する側に回ろうとする場合、
こういうモノの考え方をする人でなければ、心穏やかにその職務を全うできぬような組織作りが進んできた。


高い資質や能力を有していても、こういうモノの考え方に与することができぬために、
管理する側には回らなかった者どもによって、教育現場の理性や知性は保証されてきた。


公的な場で「平和」や「人権」や「自由」を説くことが、
反動・反逆・反体制とされ、後ろ指を差される時が来ないことを、


ただ、祈るばかり。