過ちにはふたつある
職場では、入試が近づいてきたので、
選抜に当たっての事務作業。
ガッコによって細かな違いはあるけれど、
基本、成績という名の情報の処理。処理するためには、データの端末への入力。処理そのものはPC任せ。
なのだけれど、
中学校から届いた内申点を転記し、合計を計算。
学科試験を採点し、教科毎にその点数を転記。
然るべき計算式に則って、内申点と学科試験の合計点を計算、転記。
得点の高い順に並べて、合格ラインで判定。
かつては、そのほとんどが、手作業だった。
手書きによる転記ミス、採点ミス。
限られた時間の中、正直言って、現場にいる者にとっては、あって当然。であった。
そして、実際に、あった。
オイラは、自分で言うのもなんなのだが、
この仕事をやってる者にあって、情報処理能力というのはかなり高い部類に属していると思う。
でも、すべての作業を、能力が高い者だけでやるわけではない。
能力の高い者でも過ちを犯す中、「ダイジョブですか?」という者もいないではないところで作業は進められる。
だから、まず、「採点」には多くの間違いがあった。
○×△のつけ間違いに始まって、配点間違い、集計間違い。そして、転記間違い。
と、幾重にも間違いはあった。
大学入試にも、多くの間違いはあったと思う。
今でも、あると思うし、実際に発覚することもある。
でも、受験する側のこちらも、そう思っていた。間違いはあるだろうと思っていた。
得をするのも運、損をするのも運。運に左右されることもある。
人のやること、「間違いはある」「あって当然」「避けられない」と、思っていた。
のだけれど、いつの間にやら、
「間違い」は「断じて」あってはならん! と、いうことになった。
そりゃ、間違いはない方がいいに決まっているし、するべきではない。
けれど、
あらゆる場面・場所で、
「間違い」や「失敗」を、「断じて」許さない世の中になった。
「寛容」さの全くない社会になり、それは加速度を増している。
無論、「断じて」許してはいけないことはある。
「体罰」という名の、学校現場での「暴力」というものは、いかなる理由や事情があろうが、許してはいけないもの。
教育現場における「暴力」は、過ちではない。故意による確信犯的行為である。
「入試」における選抜業務も、人の人生を左右することであるから、「誤り」「間違い」を許してはいけないことなのだろう。
そういう声に反論するつもりはない。
でも、
入試選抜における「誤り」「間違い」は、「故意」による「暴力行為」とは違って「過失」である。
かつての我々は、
そういう間違いも、たまにはあるだろう。あるよね。と、思うところがあった。
今、人々は、
自らの損得に関わる時、他者に羨望を覚え、妬ましく思う時に、
誰かの過ちを責め、間違いを咎め、貶めるようになった。
「故意」によるものと同じ次元で、「過失」を責め咎めるようになった。
「間違い」や「過ち」の中味を吟味しなくなった。
ふたつの「過ち」を同じように扱うようになった。
そういう態度は勢い、自分自身の首を絞めることになるのだが、
「故意」と「過失」の区別もせぬままに、
今日もそこここで、誰かを責め立て、咎め、貶めている人の群れ……。