反戦や平和を真面目に語ることについて
憲法改定、徴兵制、国防軍、核兵器の保有などようの勇ましいこと吠えたてる政治屋を、国民が政権党として支持してしまうというご時世に、
先日の小沢昭一氏の死もそうだが、何だか象徴的。
戦争を、原爆を、語る者が次々と世を去って行く中、残るのは戦争を知らない、或いは知っていても、その悲惨に立ち会うことなく傍観できる立場にあった者ども。
しばらく前まで、高等学校の国語教科書には、反戦平和の思いをしたためた作品が多く収められていた。
原民喜『夏の花』、井伏鱒二『黒い雨』、大岡昇平『俘虜記』に『野火』、島尾敏雄の諸作、野坂昭如『火垂るの墓』etc etc...
十数年前、年配の同僚が、次年度の教科書選定する際に、各社の教科書めくりつつ、
「もう反戦はええわ……」と、食傷ぎみの嘆息漏らしていたのを覚えているけれど、
振り返れば、その嘆息こそが、現状に繋がっているように思えてならない。
前記の作品のすべてが教科書から消えたわけではない。けれど、確実に戦前戦中戦後を描いた作品の数は減り、
経済的に何の不自由もない、幸福な家庭に育つ兄弟姉妹が、両親の留守中、日々、子らの健康に留意する愛情溢れる母が拵えおいた夕食を庭に穴掘り捨て隠し、普段食べさせて貰えないジャンク・フードをむさぼり食う。
という、埒もない小説が収められていたり、
センター試験にも、
寒い冬、暖かな家の中で温かいココアを飲んだ子供らが、雪の積もった屋外に出て手を繋ぎ、繋いだまま倒れて、雪に人型つけて、「ジンジャーボーイ・ビスケット」ごっこをしたとかしないとか、
という、これもまた埒もない小説が出題されたり……、
どちらも同じ小説家さんの作品ですが、
こういうものを読む前に、読むべきものはいくらでもあるだろうに。と、思う。
知人が、教科書編纂の仕事に関わっている時に、意見求められて言ったのは、
若者の多くは、「小説」は知っていても「文学」を知らない。教科書でしかそれに触れない触れることがない。
ならば、そんな今こそ、貧困や戦争を読むべき読ませるべきなのではないか?
反戦平和は、決して食傷するようなものではない。ということ。
経験はあらゆる知に勝る。けれども、ひとりの人間が生身で経験できることは少ない。
経験のないことを知るためには、疑似体験を重ね、得た知識で、己の想像力を鍛えるしかない。
それは、誰かによって語られた言葉を、見、聞き、読むこと。
聞くべき言葉が誰によって語られた言葉で、読むべき言葉が誰によって語られた言葉なのかを見極めること。
それが、理性とか知性というものだと思うのだけれど、
理性や知性の枯れたところから出てくるのは、内容空疎な勇ましい雄叫びと、それを賞賛し期待する人々の声。
オレの仕事は、目の前にいる若者が理性とか知性について思いを馳せる人間になるように背中を押してやること。
もっと押さなきゃならんのだけれど、
どうやら、時代と権力は、そういうことを望んでおらず、
背中を押してやるどころか、こちらがいつ「失格」の烙印を押されるかわからないという
おそまつ。