間接訃報

他の職業職場についてのことの実際は、わかりかねるのではあるけれど、
オイラの職業職場にあって、マトモな現場作業員労働者にとっての「管理職」とゆーのは基本、


忌み嫌う、とゆーか、唾棄すべき存在なのであります。


「野心」とゆーのを持ち合わせていることそのものを否定するわけではございませんのですが、
オイラの属する職場にあって、その「野心」とゆーのを完徹するに当たっては、


権威権力に尻尾を振る。ぶんぶん振る。ちぎれるほど振る。ちぎれても振る。
己の「野心」のために、他の誰かを踏みつけにする。踏んだことさえ忘れる。
必ずしも己が信じているわけでもない思想信条を、押し付ける側に回ることを恥ずかしいと思わない。
もっと言うなら、実のところ、思想も信条も何も持ち合わせてはいない。


そして、何よりも、


現場における職業的資質や能力が必ずしも高いわけではない。寧ろ明らかに低い者も少なからずいる。
現場の仕事が苦手だから、「管理職」になりたがり、そして、実際になった者も多い。


のでありますから、「管理職」になりたがること、なろうとすることのそれそのものが、愚かだったりするわけですが、
現場の方に、「管理職」より何層倍も有能なニンゲンがいるというのが、この世界の常識だったりするわけですが、


それが、教育界というヤツのいわゆるひとつの「不幸」というものだと思ったりも致しながら、
だからこそ、戦後の平和教育や人権教育というものが機能してきたのであるという自負もあるのでありますが、
そして、そんな機能が、くだらない管理や監視によって、時々刻々と失われつつあることを実感する昨今なのではありますが、


そんなこと考えているオイラに、「管理職にならない?」と肩を叩いた人もいたのがお笑いですが、
オイラが自分の中にある「魂」売り飛ばしてしまえば、なれないことはなかっただろうと思うのではありますが、
オイラが「魂」売るわけねーだろ、バーカ! なのでありますが、


どんなところにも、例外というのはあるわけで、
例外になるのは、それその人自身の資質だけではなく、その人が置かれた環境によって、結果、例外になったという人もいたりするのでありますが、


何にせよ、


オイラの中で、例外の範疇に入っていた人が、引退前に、現職の校長のままそのまんま亡くなったらしい。


前の職場では、「教頭」だったその人と共に、くだらないけれど骨の折れるトラブル処理に走ったこと多数。
聞く耳持たない持てない連中を前にして、うまくもない説教を延々垂れるという悪癖はあったけれど、
くだらないオヤジギャグをことさらに連発したがる人ではあったけれど、


煩わしいこと迫ってくると、腰の引ける人が多い中、自らが泥を被ることは厭わない人だった。


そんな人が亡くなったという報せ。


死を前にして、人は平等だが、


もうちょっと生きる権利のあった人なんじゃないかと思う。


ニンゲン、生まれた時から不平等。死すら尚、不平等。