命の重さについて

広島で、市動物管理センターや動物愛護団体などから引き取った猫を次々と虐殺していた男が逮捕された。
容疑は、動物愛護法違反。


「そんな男を放置しておくのか」という世間の声を警察が無視できなくなった結果なのだろう、


が、この逮捕の報を受けて、ネット上には、


他人様の飼い猫ならまだしも、自身の飼い猫を殺してなぜ逮捕?
とか、
引き取り手がなければどうせ死んでいたたかが野良猫、動物愛護もほどほどにしろ!などようの書き込みも多数あって、


ニンゲンの、生き物に対する意識の違いに愕然とさせられる。


そもそもこの事件、真偽についての確証はないが、流れている情報によると、
容疑者の蛮行を知ったNPO法人の職員が通報し、現場(容疑者の自宅)に現れた警官は、「猫のことだし、この人も、もうしませんと謝っているから、許してあげたら?こちらも、猫殺しを現認したわけではないし、事件として取り上げてもねぇ……。(怒りの声が静まらぬ職員に)ちょっとしつこいですよあなた、これ以上警察を冒涜すると、話してる内容を録音させてもらいますよ。だいたい、ここに長時間居続けるのは籠城になるから、早く帰って帰って」という態度であったらしい。


これが事実なら、この警官もまた、先の書き込みの同類と言わざるを得ない。


職場で、生徒らに読ませている夏期休暇中の宿題としたテキストに、鷲田清一氏の文章があった。
家庭で調理をする頻度が落ちており、食の現場の外部化が進んでいることの、我々の現実感に与える影響は少なくないという論旨。


我々は、家庭で子を産むことがほとんどなくなった。臨終を自宅で迎えることもほとんどなくなった。
我々は、病院で生を受け、病院でその生を終える。生も死も、かつての「リアル」とは異なっている。
排泄は、明るく機能的なトイレで行われ、排泄されたものどもは目に見えぬところに一瞬で流され消えていく。
近所のオトナたちが、広場で鶏を締める現場を目にすることが、少なくはなっていたものの、ボクが子供の頃にはまだあった。
が、現在は、自身が望まなければ、その現場を見ることは決してない、生活者の目の届かぬところで、生き物たちは日々「処理」され、それがかつては生きていたということを意識せぬまま、人はそれを口に運ぶ。


 食事の前の「頂きます」は、


我々が生きるために、他の「生きとし生きるもの」の命を日々奪っていることへの心の痛みであり、感謝であった。
そして我々もまた、彼らと同じ「生きとし生きるもの」であることを、食事の度に確認する言葉であった。


のだが、調理すらも外部化していくことに伴って、我々の「リアル」は希薄化していく。
「生」や「死」を、「リアル」なものとして感じない、感じられない者が増えているとして、不思議はない。


一方で、その「リアル」を受け止めることの重さを感じた者の中には、
かつての宮沢賢治のように、己の命を紡ぐために他の命を奪わぬよう、「生き物」の「肉」を極力食わぬように思う者がいる。


ボクは、そういう思いに共感するし、理解もできるけれど、ベジタリアンにはなりきれていない。


ただ、


生きるために、食べ物を口にする時、己のために日々「生きとし生けるもの」の命を奪っていることへの、痛みと感謝は忘れずにいたいと思っている。


「食の文化」を振りかざして、捕鯨やイルカ漁を肯定する気は、今のボクにはない。


奪わずにすむ命は、奪わぬに越したことはない。生き長らえることのできる命は、生き長らえる方がよい。
己が生きたいと思うなら、他の命に対してもそう思うべきだと思う。


だからボクは、野良であれ、どこかの阿呆に捨てられたものであれ、その命は出来る限りにおいて長らえるべきだと思う。


それを、引き取り連れ去り、己の衝動に任せて、その命をみだりに奪う者は、


罰せられて然るべきだと思う。殺された猫たちの命より、この男の命の方が重いとは思わない。