傲慢と包容

気のせいか、


新聞紙上でのパラリンピック関係関連の扱いが大きくなったように思う。
スポーツと、それに関わる選手にまつわる逸話は、美談として語られることが多い。
パラリンピックにあっては、なおさらなのだが、


ハンデを抱えながら生きるということについて、嫌でも思わざるを得ない。


ハンデをマイナスと思わず個性と捉える。
あれもできないこれもできないと考えるのでなく、できることがある。
と、言うのはたやすい。


パラリンピックに出場している選手に、孤児院で育った選手が少なからずいるという話。
生まれてきた我が子を、障害を理由に幼い頃に捨てられた手放されたという過去。


そんな彼、彼女らを養子として引き取り、親になろうとした人たちがいる。


アメリカという国のエゴイスティックな振る舞いには、眉を顰めたくなることも多いのだけれど、
ハンデを抱えこの世に生まれ、そして、親から捨てられた子らを、他国から迎え入れ養子として育てている人たちの多くもまた、アメリカ人。


アメリカという国の、傲慢と包容力の両極端な針の振れようが、
ニンゲンというヤツの正体なんだろう。


ヒトを殺すのもニンゲン、ヒトを生かすのもまたニンゲン。