Ora Orade Shitori egumo
宮沢賢治を読んでいる。クラスによっては読んでいた。と、過去形なのだけれど、
幾度も取り上げたことのある「永訣の朝」
今まで、ちゃんと読めていなかったような気がした。
今でも、ちゃんと読めていないような気がする。
今回も、クラスによっては、ピントのぼやけた授業をやらかしたような気がして、忸怩たる思いがある。
オレは、無神論者で、無宗教だが、
賢治のように、仏教にも、他の宗教にも、傾倒したことはないのだけれど、
そんなオレが、賢治のコトバに惹かれるのは、
「利他行」というその生活信条に、信仰とは別の所で感応するからなのだと思う。
こんどはこたにわりやのごとばかりでくるしまなあよにうまれでくる
人はみな、「わりやのごとばかり」で「くるしんでいる」
結句、自分と、自分と関わる周囲の者がシアワセならば、それでいいと思っている。
そして、自分とその周囲のシアワセのために日々、切磋琢磨している。
新興宗教の大半は、現世における自身の利益がいかにすれば手に入るかを説き、それに群がる人どもを食い物にしている。
自分の解脱よりも他者の救済を優先するという「利他行」。
死後、未来の世があるとは思わぬが、成仏するもしないもないと思うが、
自身が死後、成仏するためでなくとも、
「わりやのごとばかり」で「くるしみ」たくはない。
誰かを、何かを、搾取し、貶め、踏みつけにすることで、自身がシアワセになりたいとは思わない。
誰かの、何かの生は、自身のシアワセのためだけにあるのではない。
オレは、出家者ではない俗世間の凡夫だが、
死後、成仏することもないとは思うが、
自身とその周辺の利益だけのために生きようとは思わない。
偏狭なナショナリズムに振り回されたり振り回したり、みんなのためだというポーズを取りながら、その実、自身の欲望に囚われて生きているニンゲンばかり見聞きするにつけ、
サウイフモノニワタシハナリタクナイ……。