良心的であるために

昨夜、国立文楽劇場曽根崎心中を鑑賞した市長。
やはり、面白くなかったようで、というか、わからなかったようで、
「演出に工夫を」などようの感想を漏らしていたようだが、


「侘び」とか「寂び」とか、「もののあはれ」とかいうことについて無理解無頓着無関心、
文芸や芸術というものを、己がその人生を生きる上でまったく必要としていなさそうな人が、


そういう世界のことにあれこれ口出しする立場にあって、あれこれ口出ししたがることそのものが笑止。


なのだが、


今朝の新聞に、佐藤優氏が書いていたコラム読んで、ちょっと目からウロコ。


「彼が唯一味方にできていないのは人文系知識人層だ。彼らは総人口のコンマ・ゼロいくつくらいしかいないのに、新聞の中では5分の1くらいを占める過重代表と言っていい。だから高見から橋下氏を揶揄するようなことはまったく逆効果で、選んだ国民は自分が揶揄された気持ちになる。批判者はそこに気づいた方がいい」


「彼らは総人口のコンマ・ゼロいくつくらい」というのは、いくら何でも少なく見積もりすぎだとは思うが、
彼の言うことは、的外れではないように思う。


世間の大多数の人々は、「文楽」などいうものを目にしたことはない。
近松門左衛門の作品を見たことも聞いたこともない。


バカ高い入場料設定で、空席が目立ち、補助金もらってようやっと存続していられるような「芸能」は、消え去っても仕方がないのかも知れない。
劇場側も、「お芸術でござい」と、お高くとまっていないで、観客動員に向けての努力を、今以上にすべきだとも思う。


中之島図書館、ボクもほとんど行ったことがない。日々利用している人は市民の1%にも満たないだろう。


けれど、自分にとって面白くないもの、不要なものが、必ずしも不要であるとは限らない。
更に言えば、文化や芸術というのは、本来、金になるものではない。もっと言えば、金のためにやるものではない。


面白いことだが、


彼(橋下氏)が唯一味方にできていない文系知識人層について、


職業柄知っていることを言うのだが、


高等学校の国語教科書にその文章が採用所収されている現存する作家文筆家を「文系知識人層」と呼ぶことに異論はないと思われる。
ボクの知る限り、そんな「文系知識人層」は、旗幟不鮮明なわずかの例外を除いて、ほぼすべてが橋下氏不支持の人々である。


もっと言えば、「文系知識人」というカテゴリーに入っている人でも、自身が作家である東京都知事の石原氏を含め、橋下氏支持を標榜しているような人々の文章はどこのどんな国語教科書にも、ほとんど所収されていない。


原発に関しても、原発推進派である人物の書いた文章は、ほぼ収められてはいない。
「文系知識人層」はほぼすべての人間が、脱原発を唱えている。


それは、


教科書を作る出版社の人間や、実際にそれに当たっている大学教授や高校教諭といった編集者たちが、良心的な「文系知識人」であるからに他ならない。そして、良心的であるということは、損得勘定をしないということであるに他ならない。金勘定に血道を上げていないということに他ならない。


にも関わらず、


高校への進学率が極めて高いこの国で、
高校という場所でこうした「知識人」のコトバを読み、学んだ者が大多数であるのに、
ボクを含めて、国語教師というものの仕事は、突き詰めれば、「理性」と「知性」を以てして自分のアタマでモノを考える「文系知識人」になってもらうべく若者を鍛え養成することであるのに、


彼(橋下氏)が唯一味方にできていないのが「文系知識人層」で、しかもそれは総人口のコンマ・ゼロいくつぐらいだという。


これは、言い換えると、


総人口の99%以上の者が、学校で学んだことを何も身につけておらず、ただの「バカ」として生活しているということになる。
ボクたちの仕事が、ほとんど徒労に終わっているということになる。


「自由」や「平等」や「平和」や「人権」の意味を真摯に伝えようとしている者の声が届かず、


「自由」や「平等」や「平和」や「人権」についての意識に欠け、
「国家」という曖昧模糊とした大きなもののために、「個々人」を踏みつけにするような者の発している、感情的なコトバの方が耳に届くものであるらしい。


「だから高見から揶揄するようなことはまったく逆効果」のようだが、敢えて言う。


この期に及んで、原発に反対するなら電気を使うな、など言う人々、
本当に楽をしている汚いことをしている者を知らず、目先にいる者を引きずり降ろすことで快哉を叫んでいる人々、
自国の愚かな振る舞いには目を瞑り、他国の醜悪を言い募る人々、
いじめ加害者とその家族の名前や顔写真をさらして正義面している人々、
人々、人々、人々……。


耳を傾けるべきものが、どこの、誰のコトバなのかに気づかなければ、
とんでもないところに流されることは、歴史が証明しているのだけれど……。