日本人考

"Facebook"とゆーヤツの存在を知った時、
「こいつは日本人の間では流行らんだろーな」と思った。思った理由は後で述べるが……、
登録してみた。音楽活動の広報に活用できると思ったからである。


ボクが登録した当初、そこにはまだ音楽関係者やバンド関係者はほとんどいなかった。
最近になって増えてはきたが、"mixi"と同様、「芸名」や「源氏名」で登録している人が多い。
「芸名」、「源氏名」を即悪いという気はない。ボクにしても、本名を曝してはいるけれど、漢字表記で曝すことは控えている。


ボクはこの4月に職場を替わったわけだが、ここで面白い現象に遭遇している。
想定内と言えば想定内なのだが、その理由を考察する意義のある現象に遭遇している。


替わった職場で接しているティーンエージャーたちから、"Twitter"でしきりにフォローされるようになった。


のだが、


彼彼女らと、"Facebook"や"mixi"で繋がった数は、現在ただいま「ゼロ」である。


その一方で、


前任校で接していた生徒や卒業生は"Facebook"の中に跋扈しており、繋がっている者も少なからずいる。
そして、"Facebook"の中で、実名は勿論、プライベートライフを日々、画像と共に繋がった人たちに公開しているのは、外国籍の人たちが多い。


無邪気なプライバシーの一側面や、社会や現状への不満を公開することについて、
彼彼女らは、自身がどこの何者であるかをさらけ出すことに躊躇がない。もっと言えば、それを恐れていない。生得的に。本能的に。


一方、今の職場で接している若者たちは、
自身がどこの何者であるかを、ごくごく一部の、安心できる人にだけしか曝さず、


「隠れ蓑」の中で、


プライバシーの断面をちらつかせたり、現状への不満ややるせなさを、それをぶつける相手、当事者が、自身の発言を見ていないこと与り知らぬことが前提である中でぶちまけたりしている。


恐らく、


"mixi"には、今関わっている多くのティーンエージャーたちも多数存在していると思う。
ただ、そこでは、お互いが匿名の中で、仮面舞踏会よろしく、一部少数に限定された「人の輪」が形成されていて、
「内輪話」や「くだけた話」、『枕草子』にあるところの「うちとけごと」が展開されている。
そして、そんな「人の輪」は、下手をすれば数ヶ月単位で、解消されたり再構築されたり、放置されるに至っているのであろうと思われる。


だから、そこにボクを介在介入させようという者は誰一人として現れないのだろう。


"Twitter"には"Twitter"の、"mixi"には"mixi"の、それぞれの楽しみ方活用の仕方がある。
それが、それぞれの人たちの日々の生活を潤し癒し充実させるものであるなら、それはそれで有効に機能しているのだろうと思う。


ただ、そういうあり方が、良いのか悪いのかは別にして、


日本人という人々は、不特定多数の誰かの前で、矢面に立って、自己の責任の元に、何かを語る。述べる。ということを、生得的に、本能的に、避けたがる人々なのであろうと思われる。


見えない他者を、自身を批判否定してくる何者かを、必要以上に恐れる感情、


それは、相手からは見えない他者として、責任を負わない中で、批判したい否定したい、場合によっては亡き者にしてしまいたい、という自身の心のフィードバックであるようにも思われる。


ボクは、"Twitter"にも、"mixi"にも、"Facebook"にも、首を突っ込んでいるけれど、
匿名と本名を使い分けてはおりますけれど、
基本、ネットの世界に放り出した自身のコトバについては、顔も名も出して、責任を負う覚悟は常に持っている。


何かを言う、発信する、ということには本来、そういう覚悟が必要だろうと、ボクは思う。
覚悟のないニンゲンの言葉に、一体、何の信頼がおけるというのだろう?


どこの誰が、どんな覚悟を持って、何を語っているか?


それを見極めることが、今、最も大事なことだとボクは思っています。


ちゅこって、


そんなボクと相方のライブは、明日20日「梅田 HARD RAIN」で。
ウチの出番は2番手。共演者には、覚悟のある人たちが多いように思うぞ(笑)。


来られたし。