哲学としてのリラックマ
古典の授業、「方丈記」に突入。
職業坊主はいただけないが、昔っから「出家」というのに興味がなくはない。
「修行」っちゅの、なかなかに良い響き。「悟り」ちゅのも開けるのなら開いてみたいものだと思う。
チャクラだって開いて欲しい。お尻だって洗って欲しい(爆)
「小欲知足」=「無闇に欲しがらない。流れのまま現状に満足して生きる」ちゅの、理想だと思う。
のだが、
資本主義の世の中で、新しいモノどもを作り、売る。そして、それを欲しがり買い求める。
ちゅことで、経済ってのは回っておる。
「経済学」ちゅのは、いかに金を儲けるか、いかに私腹を肥やすかってのを学ぶ学問ではなく、
この世に存在している限りある資源資産を、いかにして平等公平に分配するか?ちゅ手段方法を研究する学問だと思うのだが、
どーやら、そうではないらしく、
お金が回らないと、どうやら人はシアワセにはなれないらしい。
そして、お金が回ってきている人のことは、羨んだりやっかんだり妬んだり、スキあらば貶めてやろうと窺っているものであるらしい。
学問ってのは、「学ぶ喜び」を満たすという、言語を操り文化文明を築いてきたニンゲンの根元的な欲求の発露から行うもので、学んだことを、この世の平和と自由のために用いるために行うものだと思うのだが、
どーやら、そうではないらしく、
人はおしなべて、自身とその周辺にある者の幸福のためだけに学問というものを行っているらしく、
欲しいものを自由放埒に手にするための手段として学問というのは存在しているらしく、
隣の誰かさんよりも、多くのものを欲しがったり、欲しがることを求めてやまなかったりするニンゲンちゅの、
ほとほと、罪深い生き物ですよな。と、思う。
「欲しがりません勝つまでは」などいう、戦中のスローガンにしたところで、
勝った暁には、思う存分欲しがってもいーですから、欲しがるために今は辛抱しましょーぜ。という思想がそこに織り込まれているわけで、
実にくだらん。
それに引き換え、
「あくせくしたってはじまりませんぜ」と呟くリラックマというキャラクター、
なかなかに「悟り」を開いております。おるのではないか?
リラックマは、ホットケーキや三色ダンゴは欲しがるようだが、それなりに「この世の無常」を理解している。「則天去私」を体現している。
鎌倉時代の隠者が鴨長明や吉田兼好だとしたら、現代における隠者はリラックマである。
と思うので、その辺りのこと授業でくっちゃべったのだが、
青少年少女たちに、うまく伝わったかどうかがわからん……。ビミョー。
でもって、
そのリラックマというキャラにしたところで、
実のところ、資本主義社会の、金儲けの道具として使われているわけであるから、
好きだけど、くだらんっちゃくだらんわけで、
やれやれ……。