ニュークリア・エイジ
3.11が起こっていなかったずーっと以前から、
今回の福島のような事故がたとえ起こらなかったとしても、
「原発下請け労働者」という犠牲なくしては成立しない産業であるというそのことで「反対」なのです。
「自動車産業だって、状況は似たようなもんじゃないの?」
と言われれば、鎌田慧の「自動車絶望工場」に書かれているように、似たようなもんだと思います。
誰かの犠牲の上でのうのうとしている。していながら、そのことに目を向けないで過ごしているのはよろしくない。
実は、そう思うからオレは、20年以上クルマを所有していませんでした。
今だって本当は所有したくないのです。デカイ荷物をしょっちゅう運ばにゃならんというその一点で、嫌々ながらにクルマを転がしております。
電力にしたところで、昔っから無闇に使わないこと気にかけながらも、その恩恵を享受しながら生きております。
それでもやはり、
自動車工場には存在しない「放射能」を身に浴びながらその日暮らしをしている人々の存在を前提としている「原発」というのは、ないに越したことはないと思うのです。
3.11に起こったことによって、オレが思っていたようなことを考えてもみなかった人々が、現実に事故が起こったことや、その事故によって自身が被害に遭う可能性を実感したことによって、「反原発」や「脱原発」を叫んでいます。
でも、そういう人々って、
要は、他人はともかく、自分の安全が保証されたなら、「原発」あってもいいって言うんだろうな。
と、思うのです。
今、政府は、「反原発」や「脱原発」の声が大きいことをわかっていながら、「原発再稼働」に向けて躍起になっている。
その一方で、
ほとんど何のポリシーもないと思われる「維新の会」は、お得意の「民意」とやらに乗っかる形で「脱原発」唱えて、虎視眈々と国政への進出を図っている。
どっちもどっちだと思う。
「原発」やめたらコストかかるよ。ただでさえ低迷している経済活動、更に一層滞るよ。国力低下して、国民の生活水準下がることになるよ。
それでも「脱原発」でいいですか?
ということ、まともに発言も議論もせず、
情緒や気分に乗っかって、「反原発」や「脱原発」を利用するのはあざといと思う。
オレは、国民全体が一律にそうなるのなら、生活水準下がっても構いませんです。
というか、すでにして10年前から給与も生活水準も上がっていませんし。
夜の10時以降はテレビもラジオも放送ストップすればいーじゃん。
送電そのものをストップしてもいいかもしらん。
貧乏結構、不便オーライ。
民意も賛成してきた「原発」、反対するなら、止めようと言うなら、そのくらいの覚悟は必要だと思うのであります。
とはいえ、
「原発」止めたままでも電力は余ってるし、コストも言うほどかからない。
要は、電力会社とその利権に群がる人々の儲けが減るだけ。
という話もあって、どうやらそれもあながち嘘じゃなさそうなのが、
馬鹿馬鹿しい。