マスク

時節柄、風邪が流行っている。


ご多分に漏れず、オレ自身もやられたのだけれども、今は復活。
なのだが、周囲には急な寒さの到来もあって、マスク着用の人多し。


自分を何からどれほど守ってくれるのか知らんが、
マスクというのが、遠ざけておきたい外界と、幾ばくかの距離を作ってくれることは間違いない。


実は今年になって、暑かろうが寒かろうが、花粉症であろうがなかろうが、時節を問わず、マスクを着用している生徒が目に見えて増加している。


単なるファッション、流行のようにも思うが、(昔っから暴走族などようの人たち、マスク好きでしょ?)そこには、できるだけ外界を自分から遠ざけておきたいという意志のようなものも感じられる。


採択して使用している「現代文」の教科書に、
干刈あがたの"マスク"という小説が採られている。


行ったことも見たこともない街にある大学を受験しに行く女子高生の話。
知らない街に足を踏み入れ、知らない場所に行く自分。
初めて泊まるホテル。独りで泊まるホテル。
いや増す不安の中、目の前には同じ大学を母親同伴で受験しに来た、マスク着用の男子高校生。
かわいそうに、受験を前にして風邪をひいているのかと、女子高生、自分も共通一次試験の時に体調崩して失敗しただけに少し同情。
したものの、彼はどうやら風邪をひいているのではなく、他人から風邪をもらわぬよう母親の指示に従ってマスクで予防しているさせられていること知るに及んで、


こんな過保護くんには負けないぞ! と、思う話。


オレは男だが、大学を受験した時、似たような経験をしている。
遠く離れた未知の街、独りでは泊まったことのないホテルに泊まり、受験した。


ホテルの朝飯の時、母親同伴の受験生が多いことに驚いた。というより呆れた。
こんな連中が合格して、オレが落ちたら洒落にならんな。と、思った。


小説の女子高生にほぼ同じ。
ホテルが別料金で用意する合格弁当手にして、バスに乗って受験会場に向かった。
母親同伴の洟垂れ小僧の多くは、タクシーで受験会場に向かっていた。


小説の女子高生と違うのは、


受験前夜、テレビに百円玉放り込んで、初めてエロビデオ鑑賞したことと、
寒い土地の大学で、トイレが凍り付いていたことに焦ったこと。


この小説、個人的にはノスタルジーに満ちあふれ、悲しき受験生描いて余りある佳編なのだが、


現任校では、読まない。
読んだところで、共感できる余地は全くなかろうと思われるから……。
こういう受験生という存在について、想像力というものが全く追いつかぬであろうと思われるから。


文学というものが、文章というものが、誰にどのように読んでもらうためにあるのかを職業柄考える。


例えば、


プロレタリア文学の代表であるところの、葉山嘉樹の"セメント樽の中の手紙"、


現任校の生徒には、
このような現実がある中、どうすればこういうループから抜け出せるのかを考えませんか?
というお話として読むことになる。


お偉い大学に進もうとする生徒の多い前任校では、
こういう腐れ爛れた社会を変えるにはどうすればいいと思う?
というお話として読むことになる。


干刈あがたの"マスク"は、


お高くとまった大学に進もうとする生徒の多い学校では、
作中の女子高生の思いを共有しながら、君たちが置かれている「過保護」という状況環境から抜け出そうぜ。抜け出さないとロクなもんにはならんぜ。
というテキストになる。


現任校の生徒らには、作中人物への共感も同情も皆無な中、
君たちは、何のために常時"マスク"を着用装用しておるのか?
を、考えさせるテキストになるのかも知れんが、


それは、世間とか世の中とか社会とかいうものと自分との距離というのを考えさせる極めて抽象的なお話になるので、


やっぱり、難しい……。