ガッコという社会

"夜想"終演後、立ち寄ってくれた登さんと、音楽の話やら、仕事の話やら。
で、あーそーなんや、そーやろな、そーですねー、と、いろいろでしたが、


その業界業種の中にあっては自明のことでも、外にいればわからぬこと知らないこと仰山あるわけで、


「教育現場」について、自明なのだけれど、ほとんどの人たちが知らないこと。
にもかかわらず、「教育」を語る時、そのことが実は結構重要であること。


を、書いておこう。


「ガッコ」という場所における「管理職」という立場にある人たち、
いわゆるひとつの、「教頭」とか「準校長」とか「校長」という人たちですが、
世間の人々は、仕事ができて人望の厚い、教師として優れた資質の持ち主がそういうポストについていると思っていて何ら不思議ではございません。


のですが、実態は、


まーったく、ぜーんぜん違うのであります。


無論、どんなものにも世界にも、例外というのはあるわけですが、この場合、例外は「滅多にない」と言っても過言ではございませんのです。


「教育現場」にあって、「管理職」という立場になろうとすると、


「魂」を売り飛ばさないとそういう立場にはなれないようになっております。


よって、「管理職」という立場にある人々は、程度に差はあれ、「魂」というものを売り飛ばした人々なのであります。


喩え話をすると、


かつて、キリスト教徒を弾圧した時代に、「隠れキリシタン」をピックアップし集め、「踏み絵」というものを踏ませることを致しました。
その時に、彼らをピックアップし集め、「踏み絵」を踏ませるというまさにその仕事をした人たちがいたわけです。
自ら、「キリシタン」を「悪」だと断じて、「正義」のためにそれを行った者もいたでしょう。また、「キリシタン」を「悪」だと決めつけるには抵抗があったけれども、今の己の立場を守るため、或いはもっと上に行くことを夢見ていたから、それを行うことに荷担した者もいたでしょう。
かつて、ユダヤ人を弾圧した時代がありました。逃げ、隠れたユダヤの人々を追いかけ追いつめ、或いは当局にその潜伏を通報した人々がおりました。
自ら、「ユダヤ人」を「悪」だと断じて、「正義」のためにそれを行った者もいたでしょう。また、「ユダヤ人」を「悪」だと決めつけるには抵抗があったけれども、今の己の立場を守るため、或いはもっと上に行くことを夢見ていたから、それを行うことに荷担した者もいたでしょう。


「教育現場」は、そういう仕事を平気でできるようなニンゲンでなければ、「管理職」にはなれないというシステムが構築されております。


要するに、仕事ができるとかできないとか、頭が切れるとか切れないとか、職場内での人望があるとかないとかに関わらず、


わけのわからん「権力」に対して「イエスマン」であることが、「管理職」であることの絶対条件になっている。


中には、


生徒を前にして行う「授業」が下手くそで、それを続けるのが苦痛だから、生徒と話をするのが苦手だから嫌いだから、という理由で「管理職」を目指す者も現場には少なからずおります。


そして、自身がそういう道を歩いてきた「管理職」に対して、「イエスマン」であることは勿論、阿諛追従の限りを尽くすことで「管理職」になろうなりたいという者も現場には少なからず存在しています。


自らが「管理職」になってそういう悪しき構造を変えれば良いではないか?


という人がいるかも知れない。
でも、その「管理職」になるためには、あらかじめ「魂を売る」ことを余儀なくされるという構造がそれを阻んでいる。
先に喩えた、「踏み絵」を「踏むことのできる者」だけが、「管理職」になれるのです。


だから、


「管理職」の多くは、現場の教員たちから尊敬を集めるどころか、「軽蔑」の対象になっていることも少なくありません。というより、その方が多かったりするわけです。そして、現場で尊敬を集めていない多くの人がまた「管理職」になって行きます。


そんな中、


ガッコという場所は、「管理職」ではなく、「権威権力に尻尾を振らない」公平で良心的な現場の切れ者たちが、運営してきたのです。


それが昨今、


「管理職」は、その権限をより強固に発動させよ。
「現場」に振り回されることなく、自らの権限でその運用運営を行え。


という論調風潮が全国的に日々、強くなってきています。


ガッコのそれぞれの持ち場でリーダー的な役割を担う教員は、現場の教職員が公選で選び運営することが主流だったのを、「管理職」が自らそれを任命し、運用運営に当たらせる。究極的には「職員会議」すら不要である。という流れになっている。


人望のないニンゲンが、人望のない「イエスマン」を主任やリーダーに任命する組織。


それで、歪みのない公平な教育が行われるわけがない。


語弊を恐れず言うならば、オレの知る限り、


高等学校の「管理職」と「管理職予備軍」には「体育教師」の占める割合が増加している。
多分恐らく、「管理職」の中でもっとも割合の低そうなのは、オレもそうだが「国語教師」。「美術教師」で管理職になった者をほとんど知らない。「音楽教師」の管理職は意外に多い。


それは何を意味しているのだろう?


「教育基本条例」喧しい中、


「管理職」が現場の教職員を評価し、その評価によって給与格差をつける。
評価の低い教員は、その職を奪うことも視野に入れ、現場に危機感と競争意識を持たせて現場を活性化する。
「管理職」には教育界だけでなく、他業種で実績をあげた人材を導入し、なまぬるい現場に喝を入れる。


そんなやり方で生き残るのは、与えられた権力を頓珍漢に振り回す「管理職」に対して抵抗しない、自分のアタマでものを考えない「イエスマン」だけ。


「管理職」にならないか?という、俗に言うところの「肩たたき」、
オレに打診してきた人がいたくらいだから、今の職場はまだマシなのかも知れないが、


オレは、権力に尻尾振る側にも、尻尾振られる側にも回りません。
権力に尻尾振りながら、バンドマンやってられるかっつーの。


どうやら世間は、


オレみたいなニンゲンを、現場から排除したいよーですけどね。


やれやれ……。