水の東西
太古の昔から(笑)、高等学校の国語教科書に採られている
山崎正和の評論あるのですが、
まったく、いつまで『水の東西』なんだよ〜って感じなのですが、
異邦の「噴水」と、本邦の「鹿おどし」比較して、
異邦は「空間の文化」でありますが、本邦は「時間の文化」なのであります。
異邦は、「自然」を「超克すべきもの」であると考え、
本邦は、「自然」を「共にあるべきもの」と考えてきたのであります。
「かたちなきもの」を恐れぬ感性を持つ本邦の人々は、「見えない水」に精神の拠り所を求めてきたのであります。
というこの評論、
西洋が、「自然は人間のために利用すべきもの」という観点から社会を形作ってきたっちゅう側面は否定できんので、それはま、そうですね。
なのですが、
ほたら、
今でも本邦の人々は、「自然」を「共にあるべきもの」と考えておるのですか?
ちゅう点になると、
こういう事態に陥ってもなお、脱原発を本気で考えようとしないその態度や、動植物に対する道義的スタンスを鑑みるに、
まったく、じぇ〜んじぇん、皆目、
ダメじゃん……。
なわけで、
本邦は、文明開化がちょろっと異邦より遅れてやって来たというだけであって、
異邦も本邦も、あらしまへんのではないかいなと。
寧ろ、
動物は感覚を有しているが理性を欠いており、自然界のヒエラルキーの中では人間よりはるかに下位に位置しているので、それらは人間の目的のために自由に使える資源なのであります。
男性は推論能力がすぐれているので自然の摂理として女性より優れておりますし、また、精神面よりも肉体面で頑健な一部の人間は、自然の摂理として奴隷にふさわしいのであります。
と、主張していたアリストレテスのことを、
こいつは、とんでもないアホとちゃいますのやろか?
と、気づいた連中が、積極的にあれこれ動きを見せている異邦の方がまだ、
本邦の人々よりも自然に寄り添って生きようとしているのではありますまいか?
と、オレなどは思うのですが、
アリストテレスは言うに及ばず、
人間の歴史というのは、恥の歴史であります。
聖書には、「神は自らの姿に似せて人間を創造した」とありますのですが、
だとしたら、
神ってバカ?
いるなら、ここに座りなさい。オレが説教してやるから。
釈迦に説法ってやつだな。ふはは。