二十一世紀中年

ガキの頃、「軍国少年」だったっちゅー話は今までにも何度か書いた。


アニメやドラマのヒーローよろしく、
何かのために闘うとか、誰かのために死ぬ。


なんちゅのをカッチョよろしいと思っていた。


だから、


  咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ 国のため ♪


なんちゅ、「軍歌」なんてのも好きだった。


  赤い夕陽に照らされて 友は野末の石の下 ♪


なんちゅ歌が、この国の「歌謡」だと思っていた。


特攻服に身を固めた軍人の写真や、戦闘機や、戦艦が好きだった。
「日本の戦闘機」やら「日本の戦艦」なんて本を嬉しそうに読んでいた。
ついぞ再放送されることのない、山本五十六を軸に太平洋戦争を描いた戦記アニメ『決断』を食い入るように見ていた。


そんな変てこりんなガキは、やがて、文学やら映画やら芸術やらに目覚めた。


そして、


「何かのために闘う」とか「誰かのために死ぬ」美学などいうのは、虚飾でしかなく、万葉の時代から、いや、それ以前から「戦争」というのは、「利権の奪い合い」を目的とした「殺し合い」であり、しかも、「既得権益」を守りたかったり、「新たな利権」を我がものにせんとしている者どもは、実は高みの見物を決め込んでいて、教育という名の洗脳によって躍らされ駆り出された者たちが「犬死に」するというのがその本来の姿なのだということを知った。
(誰がこのことを、それは違うよと論理的に否定できるだろう?)


そんなガキがオトナになって、オレという男になった。


長いものに巻かれ、権力というもののお先棒を担いで、或いは、自らが権力そのものになることを志向して生きることを賢明だと思うか?


権力が踏みつけ、犠牲にしようとする者の側に寄り添って生きること、「壁」と「卵」なら「卵の側」に寄り添うこと。そうすることが、金銭的余裕や世間的名声や社会的地位に繋がらないとしても、少数者や弱者の側に立って生きることの方を賢明だと思うか?


軍国少年だったオレは、オトナになって後者を選んだ。


そちらの方が賢明だと思ったから。
そちらの方が人として卑しくない、醜くない、見苦しくないと思ったから。


でも、どうやら、


オレが寄り添っている筈の、少数者や弱者が、彼らを犠牲にしようとしている側の連中を慕い応援するようになっている。彼らに寄り添っているはずのオレに向かって石を投げつけるようになってきた。


当事者でなければわからない、当事者であっても気付かない者が多い中、
どうしようもなくひどいトコロに向かって、この国は突き進んでいる。


投げ返しても、石は自分に返ってくる。


このまま投げつけられる石が収まらなければ、
ぶつからないところに行くしかないかな。それがどこかはわからないけれど……。