”砂の器”考

昔書いたことの繰り返しになるけれど、昔のブログはすでにネット上から消え去っているし、何度書いてもいいだろうと思うので書いておく。


松本清張の"砂の器"、映画を含めて5度目のリメイクだそうで、その全てを観ているオレですが、


最初に観たのは、高校時、学校行事としての映画鑑賞会。
野村芳太郎監督の1974年松竹作品。


当時、鑑賞会後にその感動を語る同級生、山のようにいたのだけれど、
オレだけは、この上ない違和感。
原作読んでも、その後のドラマ化作品を観ても、違和感満載。


繰り返しリメイクされるにはされるだけの理由があって、それは、多くの人にとってこれが「感動的な作品」であったからあるからに他ならないのだが、


今回のリメイクにあっても、やはり違和感は変わらず。


それは、和賀英良なる人物にいささかの同情も共感もできないからに他ならない。


秘めておきたい彼の過去が、実父がハンセン氏病であったということであれ、今回のテレビドラマ版リメイクの設定のように強盗殺人事件の被疑者として村を追われたということであれ、


音楽という、己の稀有な才能を以てして世に出たニンゲンが、それもアーティストが、己の過去と出自が明るみに出ることを恐れるが故に、善意の固まりであった恩人を殺害するに至るということに、説得力がまるでない。


ましてや、政財界のニンゲンとパイプを拵えるために政略結婚という手段を講じて、己の名声をさらに高めようとするアーティストというのは、俗に過ぎて笑止。そういう輩は、アーティストというに値しない。


それは単なる俗物、唾棄すべき卑しい生き物でしかない。


卑しい生き物が、己の卑しさから人を殺めたというそれだけの物語。
謎解きの妙はあっても、そこに感動の差し挟む余地はまるでない。皆無。


にもかかわらず、この作品が多くの人々に感動を呼ぶのは、


背負うことになった宿痾により、放浪することを余儀なくされた父と子の、中傷や迫害の中で遍路する、その旅路の場面が、哀れと同情を誘うからに他ならない。


しかし、この物語の本質に立ち戻る時、


誹謗や中傷や迫害の歴史をくぐり抜け、己の才能ひとつで名をなした男が行ったのは、その誹謗や中傷や迫害にあう父と子を庇護しようとした数少ない善意の人を殺害したことであり、


この男の冷徹なまでのエゴイズムには、いささかの同情や共感の余地はない。
この男の行動を肯定できる何ものもそこには存在していない。
己の出世の妨げになるものは徹底的に排除し消し去ろうというこの男、卑しい「悪」でしかない。


この物語を読み、観て、感動する人々は果たして、


己の過去を、社会的偏見に晒されるとはいえ、とりわけ恥ずべきことでもない過去を消し去るために、幼い日の恩人を殺めたことに共感できるのだろうか?
愛人がありながら、己のステップアップのために政治家の娘と結婚しようとしたこの男の生き方に共感するのだろうか?


遍路の場面の哀れに惑わされる人はまだしも、芸術的才能とは別の所でステップアップを図ろうとするこの男の姿に共感し、感動する人がいるならば、人の世はとても恐ろしい。


"太陽がいっぱい"という、愛してやまない映画がある。


完璧に見えた計略の詰めをしくじり、あと一歩のところで失脚する青年トムは、まさしく「悪漢」。非の打ち所のない有無を言わせぬ「悪人」。
社会を憎み恨み妬み嫉み、ステップアップを企てたトムの「完全悪」に共感できても、"砂の器"の和賀英良にはいささかの共感もできない。


トムは、冷徹極まりない非道な「完全悪」である。その「悪」が、卑しいエゴイズムの発露であることは和賀英良と変わらない。


"太陽がいっぱい"に、いわゆる人間愛といった類の「感動」はない。


にもかかわらず、何に惹かれるのか魅せられるのか?


トムは、そうすることでしかステップ・アップがかなわない所でもがいている。
音楽という天賦の才が備わっている和賀英良には生きる場所がある。


トムの「悪」は、どこまでもクールである。
それに比して、和賀英良の「悪」は、残念なことにクールではない。


両者には、「悪として生きる」という必然性に大いなる差異がある。


和賀英良という男の視点で語りなおす時、
"砂の器"は、クールなフィルム・ノワールとして再生するかも知れない。


清張の意図とはかけ離れるとは思うのだけれど、
6回目のリメーク、誰かやってみませんか?