表現の行き着くところ

朝、嫌々目覚めたら、テレビの電源オンにして時計代わりにNHK。
ニュースと天気予報聞き流しながら、朝刊。


朝刊読みながら、朝飯そしてトイレ。
そーだよ、トイレで朝刊読むんだよオレは、若い時からそーだよ。悪ぃか?


ここ最近、朝のNHKと競馬中継以外、テレビを全く見ない。
地デジに一本化されて映らなくなっても問題ないんじゃねーだろか?


学生時代の数年間、テレビ持ってなかったし、なけりゃないで問題ない。
見たい映画はDVDで見りゃいーし、NHKの受信料、断ってやろかしらん。


テレビの映らない生活もステキ。と、ちょっと思う。


が、新聞がないと活字に飢えること疑いない。
で、トイレで読んでた朝刊に、


斉藤和義の"ずっとウソだった"と、「斉藤さんは好きだが"ずっとウソだった"は大嫌い」と発言した、いきものがかりの水野氏について書いている文章あって、「近藤康太郎」なる記者の署名記事なのだが、「両者とも誠実」とか旗幟不鮮明なこと言いおって、「両者とも誠実でウソのない勇敢な態度」とか、何が言いたいのかさっぱりわからん。


何人も敵に回さぬよう気配りしながら、取り立てて主義も主張も持ち合わせてない癖に、それでいて気の利いたこと言おうとする輩の典型的な駄文。
ただでさえ高い不快指数、朝からアップ。


権威権力や利権にしがみついて重大な過ち犯していながら、反省謝罪するでなく、自身の責任負うつもりもない偉そうなヤツらに、今しかないタイミングで「FUCK!」突きつけた斉藤和義の歌と行動を不快に思った連中は、それまで何も考えてこなかった自分自身に対しても「バーカ!」と言われたような気がしたからイラッとしたのに他ならないのであり、「斉藤だって今までは何も考えて来なかった癖に、何やねん偉そうに」と思ったのだろうが、斉藤氏はそういう人たちとは違って、前々からいろいろ思うところがあったからこそ「怒り」というものが音楽家として表面化したわけで、斉藤氏の歌を聴いて「バーカ!」と言われたような気がした人々は、逆恨みする前に、己の馬鹿さ加減をこの機会に本気で反省した方がよろしいのではないかとオレなどは思う。


不快指数アップした中、えっちらおっちら仕事して、
帰宅後、押っ取り刀でスタジオ。明日のリハ。


  音楽家を創作に駆り立てるのは、イデオロギーではない。
  極言すれば「かっこいい/悪い」の皮膚感覚。


など、近藤氏書いているが、


 イデオロギーによって創作された音楽があっても一向に構わない。
 それを「かっこいい」と思うか、「悪い」と思うかもまた、それをやる個人の皮膚感覚。


人様の前で音楽やってる者はみな、己のやってることを「かっこいい」と思ってやってんだわ。或いは、「どうすればかっこよくできるのか」をいつも考えてんです。それが、他人様にどう受け取られるかは、また別のお話。


己のやってることを「かっこいい」と思って、明日も歌い奏でて来ますよオレは。
「カッコ悪い」と思ってること、わざわざするかっつーの。


それが、どう受け取られるかは、また別のお話。ですけんどもにゃ……。