君よ憤怒の河を渉れ

歴史学というのは、英雄の武勇伝に酔うためにあるのではなく、人間の愚かしさを辿ることで、その愚行を繰り返すことのないよう反省するための学問である。


経済学というのは、金儲けの方法を学ぶ学問ではなく、この世界にいかにして平等に富の分配をなし得るのかというその方法を追究する学問である。


商学というのは、どうやれば人を出し抜いて金を稼げるかを学ぶ学問ではなく、いかにすれば限りなく公正な商取引を行えるのかを追究する学問である。


政治学というのは、自分のよって立つところの集団をいかにして繁栄させるのかを学ぶ学問ではなく、いかなるシステムによって構成すれば、この愚かしい人間世界を平和裡に治めることができるのかを追究する学問である。


哲学というのは、愚かしい人間という存在の、その愚かしさを見つめることで、愚かしいことを再認識するレトリックである。


文学というのは、愚かしい人間の中にあって、さらに愚かしい人間の生きざまを柔らかく容認し包み込む術をレトリックの中で感得する、学問というほどのこともない遊び心である。


人間は疑いようもなく愚かしい。


けれども、


己の愚かしい行いを愚かしいと認めながら生きている人間と、己の愚かしさを認めることなく生きている人間は、同じ人間でありながら、別の生き物であるように思う。


別の生き物と同じ場所で生きることには、それ相応の苦痛が伴う。
そして、苦痛を受けるのは常に、愚かしいことを愚かしいと認めながら生きている側の人間。


震災あって、原発事故あって、被災地から離れたところにあって、


愚かしいことを愚かしいと認めない人間、そして、愚かしさを認めない人間を許容する人間の多さ見ながら、


それに対する怒りのやり場に、窮している。


原発推進の広告塔となっていた人々の中に、後悔し謝罪した人間がただのひとりもいなかったことに、驚き呆れる。
ある者は、自身が広告塔になったことを躍起になって隠蔽にかかっている。
ある者は、自身の間抜けさ顧みず、電力会社に裏切られたと言い放っている。
またある者は、今回のことは想定外だと詭弁を弄して開き直っている。


そして、世論という名の愚民は、そういう人々を表立って批判するでなく受容している。


世間の風がどちらに向いて吹いているかを鋭敏に読み取る力を持つ、「維新」などいう、この上なく勇ましくも恥ずかしい看板掲げた、歴史学や経済学や商学政治学や文学や哲学の本質が何たるかを知らぬ、知る気すらない破廉恥な男が、人権意識の欠片もない野蛮極まりない法案を通すのだと意気込んでいる。


世論という名の愚民は、そんな破廉恥を諸手を挙げて支持している。


歴史は繰り返す。という。


繰り返さないで欲しいと切に願いつつ、


怒りに振り上げた腕を降ろす場所がない……。