朝、口入屋で

暮れ方、持参金。


とまぁ、だいぶん前に元同僚から頂いた「米朝大全集」、MP3プレーヤーなる文明の利器にぶち込んで、道中行き帰り人力二輪車漕ぎながら聞いておるのですが、


よく知った噺、「さげ」からして忘れてしもうておる噺、初めて聞く噺、あれこれこき混ぜ、すでに二十ばかり、


どうして、もそっと早よからそうせなんだのか、悔しいながらなかなかに楽しい。


で、聞いていて思うに、


古典落語には、ワンコワンワン出てくるのにいい噺が多い。


「鴻池の犬」など、実に哀愁に満ちあふれておりますな。聞いておると切なくなって涙が出てくる。泣き笑いちゅやつ。
上方じゃ演ってる人少ないようですが、「元犬」なんてのも味がある。
ワンコワンワン出てくる時は大抵、愛嬌があってかいらしい。


さだめし、


ワンコワンワンてなもんは、昔っから縄で括られ繋がれて、ご主人さまに尻尾振ったり、「お手」なんぞもして、ひとたび不逞不審の輩がやって来ればウーワンワンと追い払ってくれおる。ちゅこって、「ういヤツ」と愛で可愛がられておったのでありましょうな。擬人化もし易いってなもんで。


それに引き換え、ニャンコニャンニャンちゅヤツは、人様に飼われておっても、己の気が向いた時にぷいっと外に出て行ったきり、飯の時しか帰って来ん。外で何か捕らえたりくすねたり頂戴した時には、飯時になっても帰って来ん。尻尾振って主を立ててくれるでなし、「お手」ひとつするわけでない。さかりがついたら不気味な声あげて夜中に啼き叫ぶ。台所の鼠くわえて来たら、お手柄誉めて遣わそうかと思うが、死んだ鼠の姿好んで見たい触りたい人はおらん。挙げ句、出てったまま帰って来なくなって、どこで死んだか生きているのかすら分からない。


ちゅわけだからかどーなのか、落語の世界じゃニャンコニャンニャンは、すこぶる扱いが悪い。


「猫の茶碗」にしても、銭儲けの道具に使われておるに過ぎない。
擬人化される時は、「化け猫」と相場が決まっている。


けれども、今時分のニャンコを見るに、
ウチん中から一歩も外に出ることなく、その家のあるじ主人と日がな一日一緒に寝たり起きたり遊んだりしておる。むしろワンコワンワンより近いところでゴロニャンしている。ゴロゴロスリスリ、飯のおねだりなんぞもしてきおる。


昔っからそうだったら、落語世界でのニャンコニャンニャンの扱いも、もそっと違っておったろうに、


古典落語に、ニャンコニャンニャンは似合わなかったのかねぇ……。


など、ビール飲み飲みブログ書いてるオレの横で寝ていたウチのニャンコ、オレの顔見上げて、


「にあう」


おあとがよろしいようで……。