ほとぼり

東京−仙台間の東北新幹線が運転再開したからか、


通勤途上に見えるゴミ処理場の時計と天気予報の電光掲示、昨日の朝から再開している。


オレの暮らしている界隈では、恐らく東京界隈でも、


ほとぼりが冷めた気配が漂っている。いるのではないか?


震災津波直後には「対岸の火事」と思えなかった人々の中にも、もうそうゆうこととはカンケーなく暮らしたい暮らそうよという気分があるように思われる。


でも、


福島第一原子力発電所の「ほとぼり("熱り"と書く)」は、文字通り、まーったく、ぜーんぜん、少しも冷めてはおりませず、


原発関連のニュースはもういいよいいや」と思っている人たち、
今回の原発事故の責任は、そういう人たちにこそあるようにオレは思う。


高橋源一郎氏が、このところの社会の風潮が、太平洋戦争前夜の日本に似ていることを憂えているが、オレもそう思う。


憲法9条」を守ろうとする気などさらさらなく、
ありとある公的教育機関では(ホントは私的な教育機関でもこの国にある限り)、日常的に日の丸を掲揚すべし。式典にあっては国旗掲揚は無論、全員起立の上、国歌君が代を大きな声で斉唱すべし。国家に敬意を払い、国家のために身を捧げ投じる人間を育てるための教育が今こそ必要である。
などいうことを本気で推し進め、それを強権発動しようとする、人権意識というものが根本から損なわれている者どもを、「民衆」という名の黒い固まりが、都知事や府知事に祭り上げ支持しているというそのことが、滑稽を超えて、もはや恐ろしい。


「民主主義」の本質は「民のために国はある」ということなのだが、「民主主義」は今、数を頼んだ暴君が放埒を極めるためのシステムに成り下がっている。


己の首を絞めようとするその当の本人を応援支持する人々。そんな数の力を楯に、政治を、国を、禍々しい方向へと舵取りをする連中。


金はあるべき場所に流れればそれでよい。能力才覚のない人々は、然るべき場所に金が流れ潤うための駒となり、その身を捧げなさい。


そういう社会を作りたい作ろうとしている連中を、駒になれと言われる側の人々が支持している。


みんな同じ方向を向きたがる。みんなが向いているその方向が誤っていることに気づき、異を唱える者を、「非国民」という言葉で退け、排除し、断罪しようとする動きは、現実のものとなっているけれど、その流れが、引き返すことの出来ないところに行ってしまうまで、そう遠くないように思われて、


憤ろしい……。