しあわせになりたいけどがんばりたくない

新年度初日、


通勤途上に通り過ぎるとある町、そこかしこにある町内会の掲示板にピンクのリボン貼ってあり、リボンに黒マジックで書かれた文字は、


「がんばれ日本!」


これを目にして、微笑ましいと思う人が、勇気づけられる人が、ホントにいるのか、どれだけいるのかわからんが、


オレはすこぶる気色が悪い。


個人的に、「頑張る」は便利だがなるだけ使いたくない言葉。
使わないよう「頑張って」いる(笑)。


自分が「頑張ろう」と思うのはまだしも、
他者に「頑張れ」と投げかけるのは、ともすれば、努力することを闇雲に強要することになる。しかもその時、自身は何の責任も負わない。


もちろん、「がんばれ」と鼓舞している対象がこの場合「日本」であって、投げかけている当人自身も「日本」に含まれているのであろうから、100%客観というわけではない。にしてもそれはそれ、「がんばれ」には、「何をどうするのか」という具体的な中味は何もない。


かてて加えて、こういうくくりで「日本」を鼓舞する人々が、何をもって「日本」と言うのか、果たしてこの国で暮らしている外国人を視野に入れているのかどうか、無邪気と言えばそれまでなのだが、排他的な匂いも同時に感じる。


今、スポーツ界の著名選手らが被災地被災者励ますべく、沈滞ムード払拭すべく、電波に乗せてこの言葉を全国にばらまいているようで、全国的なスローガンのようにしたい向きもあるようだが、


この時節、贔屓にしているサッカーや野球のチームを応援するように「がんばれ日本!」の言葉を町の辻々に掲げられても、


「がんばりたくない人」もいるだろー、「がんばれない人」もいるだろー。と、思う。大きなお世話だ。と、思う。


運良く被災しなかった者は、ただ普通に静かにいつもの生活を続ければよい。


「がんばれ日本!」は、オリンピックかワールドカップ・サッカーの時くらいにしておいて頂きたい。


黒マジックの文字は子どもの手によるものらしく、
子どもたち集めて、ピンクのリボン配って「がんばれ日本!」と書かせているどこかのオトナ、それは「小学校教師」という名の生き物のよーな気がするが、


きっと、世の中が間違った方向に突っ走っても、そのお先棒担いで、結果の責任は取らないタイプ。


脳天気と言えば聞こえは良いが、考えることを知らない。


そういうものにはなりたくないね。ならんけど。