合点がいった

先週、金曜の夜テレビで放送していた『デスノート the Last name』、


見るの2度目なのだが、ハタと合点がいったことがあった。


「L」を演じた松山ケンイチ若手俳優の代表格として評価もうなぎ登りだが、かつて出演した『男たちの大和/YAMATO』(2005佐藤純彌監督・オレ未見)について、


戦争と平和について深く考えるようになった。今の自分たちがあるのは、かつての戦争で戦い死んでいった兵士たちがいたから。『男たちの大和』は自分にとってターニングポイントになった作品」


という趣旨の発言をしていたことがあって、


人のセックスを笑うな』、『デトロイト・メタル・シティ』、『カムイ外伝』、『ノルウェイの森』、そして川本三郎原作の『マイ・バック・ページ』に出演する俳優であることと、その発言との距離感に違和感があった。意外だった。


戦争と平和」を考える時、「正義」のための「戦争」などどこにもありはしないのだけれど、人の歴史に絶えることのない「戦(いくさ)」というものには、常にヒロイズムというものが付きまとう。「歴史好き」を、「戦国時代好き」や「幕末好き」を標榜する人々の多くが、そのヒロイズムに酔いしれているのは言うまでもない。


オレ自身が、ロー・ティーンの頃、「戦艦」や「戦闘機」の無機的な造形が好きで、それに乗り組む「海軍兵士」や「特攻隊員」を美しいと思い、愛して止まなかった「軍国少年」だったからわかるのだが、


「ヒロイズム」を基底で支えているのは、「ヒーローとは何か?」という観点である。


地球のために、世界平和のために、愛する者のために、悪の秘密結社と戦う超人は、己の身を削り、自身にとって何の得にもならぬ戦いを日々続けるからヒーローなのだ。


ウルトラマンも、ウルトラセブンも、仮面ライダーも、キカイダーも、
そして、タイガーマスク伊達直人も。


そこにあるのは、「自己犠牲」。


松山ケンイチ氏にとって「美しいもの」、


それは恐らく、「己自身のためでなく誰かのために生きること。時には死を賭してでも戦うこと」なのだろーなということに、


デスノート』眺めていて、今更のように気付いた。
そういう視点から見ると、彼は役者として脈絡なく仕事を選んでいるのではなさそうだ。出演した映画にはひとつの筋が通っている。


要するに、


オレも「戦争を知らない子供たち」のひとりだが、さらに戦争から遠く離れた今の若者の多くは、オレの想像を遥かに超えたところで「戦争を知らない子供たち」なのだな。ということ。


つまりは、


「お子ちゃま」。


「狡賢いオトナ」が「お子ちゃま」を騙してきた経過が歴史。
「お子ちゃま」を「騙されないオトナ」にすることがオレの仕事。


なのだが、道は遠い。


ニンゲンってのは、つくづく懲りない生き物のようだから。