パン屋再襲撃

生まれ育った町には商店街があって、


その界隈に住む人たちは、


米は米屋で、
味噌は味噌屋で、
豆は豆屋で、
肉やコロッケは肉屋で、
鶏と玉子は鶏屋で、
牛乳は牛乳瓶の配達で、
魚は魚屋で、
野菜は八百屋で、
果物は果物屋で、
惣菜は惣菜屋で、
乾物は乾物屋で、
昆布は昆布屋で、
豆腐は豆腐屋で、
うどん玉は製麺屋で、
洋菓子は洋菓子屋で、
和菓子は和菓子屋で、
駄菓子は駄菓子屋で、
お茶はお茶屋で、
漬け物は漬物屋で、
天ぷらは天ぷら屋で、
氷は氷屋で、
酒は酒屋で、
煙草は煙草屋で、
紙は紙屋で、
靴やスリッパは履物屋で、
本や雑誌は本屋で、
薬は薬屋で、
服は洋品店で、
布団は布団屋で、
畳は畳屋で、
ガラスはガラス屋で、
文房具は文房具屋で、
電化製品やレコードは電器屋で、
家具は家具屋で、
ネジ釘や針金は金物屋で、
茶碗や湯飲みや箸や洗面器や竿竹は荒物屋で……、


店の人とやり取りしながら、買い求めては生活していた。


やがて、スーパーマーケットが現れて、
米も味噌も豆も肉もコロッケも鶏も玉子も牛乳も魚も野菜も果物も惣菜も乾物も昆布も豆腐もうどん玉も洋菓子も和菓子も駄菓子もお茶も漬け物も天ぷらも氷も酒も煙草も紙も靴も本も服も布団も文房具も電化製品も家具も茶碗も湯飲みも箸も洗面器も、レジに並んで買い求めるようになり、
ネジ釘や針金や竿竹はホームセンターなるものが現れて、薬はドラッグ・ストアのチェーン店が現れて、そこで売るようになった。
畳やガラスは、どこで買えばいいのかすぐには思いつかなくなった。


オレがその町を離れる頃には、商店街の店々は次々に閉められて、
新しくできたスーパーマーケットとコンビニだけが生き残り、商店街の賑わいは失われていた。


きっと、今の方が便利になったのだろう。


でも、


魚屋や和菓子屋の悪ガキどもと一緒に、商店街や市場を彷徨き回っていたオレと、スーパー&コンビニの時代を生きてきた連中とは、


生活する、生きるという根っこのトコロにある感覚が違っているような気がする。


生活習慣、生活体験の違いというのは、
人と人との距離感や、集団や組織に対するスタンスや、そういったものに結構大きな影響を与えているような気がする。


人様の拵えたものを、人から買い生活するというそのことが、見えづらくなっている。人の中で己が生きているというそのことが、見えづらくなっている。


そのことが、他者に対する想像力というものを人から奪ってきているように思う。


己の手で作ったものを人様に売って生活する。誰かが作ったものを、その人の手から買って生活する。


それを意識することは、大事だと思う。


今の世に個人商店として生き残っているのは、
ケーキ屋とパン屋と花屋ぐらいか……。


だから、さっさん。 キミはパン屋をやりなさい。


パン屋、それは正解。


再襲撃されるのはマクドナルドだから、ダイジョブです。うん。