靴の話
テレビドラマ"北の国から"で、
履き潰れボロボロになった純と蛍の靴を買う父・五郎が、靴屋の店頭で一番安い靴を求めて物色するエピソードあって、
その姿が哀しく切なく、なんだか妙に印象に残っているのだけれど、
ふと、ガキの頃、靴は一足しか持っておらず、
来る日も来る日も履き潰れるまでそいつを履いていたことを思い出した。
周りがどうだったのか知らないが、オレは高校の頃までそんな感じだった。
カミさんに聞いたら、カミさんも高校の頃までそんな感じだったと言うので、殊更にオレんチが貧しかったからというわけでもなさそうである。
今日、年若い同僚に、コドモの頃どうだったかを尋ねてみたら、
男も女も声を揃えて、ただ一足の靴を履き潰すまで履いていたという。
しかも、高校の頃までそんな感じだったという。
オレたちと一緒じゃん。ちょっと意外。
時代の違いがあるのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。
今、オレが勤めるところにいる若者たちの足元を見るに、連中は、それはもう日によって手を替え品を替えいろんな靴を履いて来る。ま、要するに何足も持っているのである。
のだが、
払うべき金を払わない払えない家もまた、途轍もなく多い。
格差社会とか、貧富の差の拡大とか、実際に身につまされること多いのだが、
彼らと彼らの親たちの多くは、金を使う優先順位が異なっている。
モノのあふれる文明社会にあって、服や化粧品や靴やバッグやアクセサリや携帯電話やクルマやジャンクフードに使う金は惜しまない。
でありながら、光熱費水道代は毎月のように滞納する。新聞は読まないから取らない。子にかかる学費や教育費、給食費もできるならば出したくない。上手く行けばそのまま踏み倒せば良いくらいに思っている。実際に踏み倒す。
同じひとつの靴を履き潰すまで履くコドモと、何足もの靴を日々履き替えるコドモ。
「貧しさ」というものの姿が見えづらい見えない。
そんな時代をよろよろ泳いでいる。