ボクの大学には入学式がなかった

卒業式に引き続き、入学式。


ゆえあって、半年遅れたり、入ったガッコをリタイアした生徒たち。
ここがオアシスになるかどうかはわからんが、まずは、よーこそ。


またしても、少人数にも関わりませず、だだっ広い体育館。


要らないと思っているのに、一年間に入学式と卒業式が二回ずつ。
要らないと思う理由数々あれど、その理由の筆頭は、


国旗国歌の強制。


現場でも、筋肉系の教師言うに及ばず、若い世代の教師にもこだわりのない者増えてきた。
世間的には、反対しているのは「日教組」だと思っている向きもあろうが、ボクは「組合」には一度も入ったことがない。


強制に反対する理由は、何度も繰り返し書いているけれど、


それがいかなるものであれ、
「心の自由に関することを、誰かから強制強要されるいわれなどどこにもない」
というただ一点、それに尽きる。
ボク自身に関して言うなら、それが「日の丸・君が代」だから反対しているわけではない。


国民のすべてが同じ方向を向いてひとつになって、国家を盲目的に敬愛するポーズを取らされることの気味悪さに耐えられないだけ。そういうやり方やり口が向かって行く先の閉塞感が想像できるだけ。


「国民」を「クラス」、「国家」を「学校」に置き換えても同じこと。


なのだが、


隣国の気味悪さをあげつらいながら、自国の気味悪さや恐ろしさには鈍感な人々が増えている。


懲戒・処罰をちらつかせ、或いは実行し、それを強要せんとする動きも加速している。


ボクの仕事は「文学を通して、自由とは何かを共に考えること」。
己の心の自由を売り渡して、そいつを教え考えることなどできない。


目の前の若者に、国旗・国歌への敬意強要して、国家への忠誠誓わせるのが、ボクの仕事ではない。


己の生活あるにせよ、それだけはどうにも譲れない。
譲れないから、「管理職」にはなれないし、ならない。


それどころか、このまま行くと、最後までこの仕事全うできないかも知れないなと「式」の度に思わされる。


バンドは、音楽は、口にするのは気恥ずかしいが、「心の自由の発現・束縛への嘆きと怒り」。
権威によって強制されて、国旗に頭垂れ、国歌口ずさんでるヤツがロックしてたらそれは茶番。


ボクの大学には学園紛争の名残なのか入学式がなかった。
入学式がないことで何の支障もなかった。いいところに来たとその時は思った。
大学の講義からは、ほとんど何も学ばなかったけれど……。
それでいながら、卒業式をやっていることには落胆した。
出ないつもりだったが、取得した免許状その他の交付が遅れると言われて、渋々故意の遅参によって最後だけ顔出し。


今は、入学式もやっているよーだ。


きっと、似合わないスーツ着込んだ青二才やおねぇちゃん、果ては、そのかーちゃんやとーちゃんまでもがキャキャはしゃいでいるんだろ。やれやれ。