わからないということ

今を去ること20年前(20年てか!)、


仕事帰りは、乗り換えの梅田で寄り道。


旭屋書店の最上階に登り、そこから1階ごと下りつつ、めぼしい本探す。
小腹がすいたら、2階だったか3階だったかにあった、確か「リーブル」たらいう名の喫茶室でスパゲティ食らうか、これは今もある、書店からちょいと先に行ったところにある立ち食いそば屋で蕎麦すすり、


その後、
ゲーセン覗いたり、東通り商店街の、今はなきレコードショップ「LPコーナー」でレコードやCD漁る。


それが日課だった。


その頃は専らJAZZだったが、レコードもCDも、背表紙(というのか?)の横文字、ささっと眺めて、気になるアーティストが参加しているめぼしい新譜や新録がないか探していたが、


今思えば、ハナっから、横文字で書かれたアーティスト名やアルバム名、すらすら読めるわけじゃなかった。
レコード漁り始めた高校の頃は、洋楽のレコードやCDの背表紙読むの苦労していたこと覚えている。


何事にも慣れが必要だというお話なのだが、


自身が日々当たり前にやっているやれていることが、他人様によっては結構大変なことであるというのを、人はともすれば忘れがちである。


世間には、文字盤の時計が読めない高校生や、新聞のテレビ欄の見方わからぬ高校生がいるけれど(いるのだよ)、


「わからない」ということを、本当に相手の身になって「わかる」ことは、実はとても難しい。


そんなことを、この頃、ちょっとだけ、本気で、わかってきた。


そーゆーことがわかってない教師も結構いるから、


わかってきたのはいいことなんだろー。と、思っている。